住職の日記

目の前のことを一生懸命とは…

目の前のことを一生懸命とは…

亀が卵を生むために穴を掘っていました。

足が意外と長いのですね。

さてさて、ツバメにしてもカメにしても本当に子孫を残そうと一生懸命です。

なんせ周りは外敵だらけだからですからね。

もうなりふり構わず「徹底的に生きる」という感じです。

徹底的にそれぞれが生きる、それが自然界の姿であります。

そこに一切の無駄もなく潔く、すべてが溶け合っている自然は美しいの一言です。

そして、我々人間も「徹底的生きる」事が大切なんですが

我々人間にとって「徹底的に生きる」ってどんな状態の事を言うのでしょうか?

思いつくのは、もう忙しくて考える時間もなく常に目の前のことを次から次へとこなしていく状況と

自分の好きな事に夢中になっている状況です。

前者も後者も同じ「徹底的に生きる」と言えます。

間違いなくこの状態は、燕や亀同様にこの自然界に溶け込んでいて、非常に美しいですね。

しかし、徹底的にというのは、一貫性がある分何か「捨てている」「疎かにしている」ともとれるのです。

自然界に溶け込んで行くことは素晴らしいですが、我々人間同士のコミニュティも物凄く重要であり

そちらの世界からすると、一貫性がある人って一言で言うと「近づきにくい」という事です。

そうした、他を寄せ付けないほどのめり込むという状態は、そうした不具合が生じるのです。

例えば、前者の、自分の感情は全く考えずに、完全に他に尽くす、聞こえは良いですが心と体は

ボロボロになっていくんではないでしょうか?

どんなに現状必要なことでも、自分の好きでないことを続けていくと確実に壊れます。

後者の自分の好きなことを徹底的にするですが、夢のような話ですがそれもまた、

周りにどれだけの人が理解してくれるのか?好きなことだけで生活はできるのか?

自分のこだわりを貫きすぎて周りに不快な思いをさせているのでは?

という諸問題はついて回ります。

鳥や亀や木々などの自然界はそれで良いのです。

それぞれが、自分の命をかけて生きていて、それで自然に溶け合って自然が成り立っているのです。

逆に「徹底的」でなければそれは「死」を意味するのです。

もちろん我々人間もその自然界に入っているのですが、我々人間はそれだけではダメです。

人と人との「繋がり」も重要であり、尽くしあい、調和して穏やかなコミニュティを構築することが大切になるのです。

ただ、こうした繋がりだけに囚われてしまい、自分の好きなことが出来なくなっても問題であります。

つまり、対になっている価値観や世界にそれぞれに善悪はありどちらか一方に偏っては

穏やかにならないということなのです。

こうした矛盾する価値観の摩擦を払拭する方法があります。

それはとりあえず「目の前のことを一生懸命やる事」です。

わかりやすく過ぎる分、わかりにくいかも知れませんが。

話は変わりますが、長くそして多くの人に愛される「般若心経」ですが、お経の意味を

理解して読んでいる人はそんなにいらっしゃらないんじゃないかなぁと思うのです。

じゃあ般若心経の意味と言うと解説書はたくさんあり、言葉の意味は知る事ができるのです。

ですが、全ては「空」であると説くお経がそんなに人を惹きつけるとも思いません。

よって、般若心経の魅力はそのお経の意味ではない、もう人知を超えた「何か」でしょう。

そこで弘法様はこの般若心経を真言(仏の言葉)だと説かれております。

そして仏の言葉は一字に千里を含むといわれております。

この般若心経をお唱えすると「何となく心が安らぐ」「願い事が叶う気がする」と言うのは

そういう御仏の言葉を我々が発することにより、計り知れない功徳が頂けて

御仏にリンクし心の安心へと繋がるのです。

人を惹きつけてやまない「何か」とは説明のしようのない仏の力の事であります。

そして、ここで大切なのは「発する」という行動をしなければなりません。

我々が一歩踏み出せば、その分御仏も一歩近づいていくる、もう一歩踏み出せば、その分近くなり

いつしか遭遇するのです。

ですから「目の前のことを一生懸命行う」という非常に簡潔な言葉には般若心経の真髄が説かれているのです。

つまり、やってみなければ好きか嫌いかもわかりませんし、続けてみなければ本当に好きだったか

嫌いだったかわかりません。

すべてのものに「善悪」が含まれているので、理屈抜きでまずやってみることによって

善い事、悪い事の分別がつき、それが経験になるのです。(もちろん犯罪はダメです)

その経験を積んで、初めて、何が今自分に必要ないのか?何が出来るのか?そして何がしたいのか?

などと、初めてそこで材料が出揃ったと言ってもいいでしょう。

そして、自分でそれらを組み合わせて、自分なりに、対になっているどちらの価値観に囚われない

「中道(悟りの道)」を完成させれば良いのです。

この道はどちらの価値観にも囚われていませんし、疎かにもしてませんので、

それはそれは穏やかな道と言えましょう。

間違いなく「目の前のことを一生懸命」は彼岸の世界への第一歩と言えます。

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