住職の日記

信の中に生きる

今日でようやく2月が終わりましたねと言いたいとこですが

今年はうるう年で一日多く29日があります。

太陽暦と地球の自転速度とのずれを修正する為にこのうるう年があるらしいです。

なんでも知らず知らずのうちにずれてきてしまい、それのズレが災いのもとになってしまう

かもしれませんので、私達の心も修正しておきましょう。

今年ももうすぐ3月ですよ、早いですね。

さて、毎年この時期になると春日井の団体の方がバスでお参りに来られるのですが

立ち寄られるのは、熱田神宮とウチだけ。

この辺りで寄るところと言うと、常滑焼団地や、今で言うとめんたいパークでしょうか?

そういうところは脇目もふらず、本当にその2つだけ。

うちでご祈祷して、食事をして、みんなでおしゃべりしてお帰りになられるのです。

本当にお参りの会です。

しかし、それでも本当に楽しそう。

…「何もないからつまらない」と言うのはある種、言い訳で、そもそも「楽しむ」機根が無ければ

何もかもでそろっていても、つまることは無いのかなぁと思うのです。

そういった点で今は道具には恵まれていますが、それがそのまま幸せに繋がっているとはいえず

食事で言うと食器は立派なものが揃っているけど、料理が無い状態でしょうか?

食器も大切ですけど、やっぱり料理があっての食器ですよね?

その道具は手段であります。

そうとはわからず、物を取っ替え引っ替えして、新しいものを得ても満足はすること無く

そして、欲だけは肥大していき、心は苦しいまんま。

これ現代に多い現象ではないのでしょうか。

八苦の一つに「求不得苦」という苦しみがあるのですが、自分が求めるものが得られないことによって

苦しむというものですが、皮肉なことに、物が溢れているおかげで、その苦しみの原因が物にあると思いこんで

しまい、物が得られなくて苦しいのではなく、物があっても苦しいままという事態です。

そうではなく、問題は自分自身の根にあるのですね。

新しく何かができたから、幸せになるとか、何かを得たから幸せになると言うのは

幻想で、楽しめる人はどこでも楽しめるとという方が正しいかもしれませんね。

…ありがたいことに、私のひいおじいさんの代からお参りに来ていただいている団体さんなので、

軽く半世紀以上のお付き合いですが、未だこの会の内容が全く変わらず残っているということは

本当に凄いことと感心したと同時に、有るの中に楽しいが有るのではなく、無いの中に有るのだなぁと

改めて感じたしだいであります。

地蔵寺の周りはまったく変わりませんが、今この辺りは新しい商業施設が出来て

土日ともなれば大変な賑わいを見せているのですが、こうして信の中に生きている人たちにとっては

それはそれほど魅力的には映らなかったようです。

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