住職の日記

一回きり、それっきり

一回きり、それっきり

今日は敬老の日。

おばあさんが区から紅白まんじゅうを頂きました。

さて、無常を知ることが、真の幸福であると事は間違いありませんが

無常とは、常に形あるものは崩壊に向かっていて、体は老病死に確実に向かっていて、

愛する人とはいつかお別れしなければならないわけで、実際この無常のどこが幸せなんだ?と思いますよね。

無常が幸せという事ではなくて、無常だと覚悟して生きて行く事が大切で、それが幸福への道なのであります。

そして、無常と知らないで生きて行く事は、実は大きな損をする事になるのです。

例えば、今咲いている花があるとして、その花が散っても、枯れない限りその木から、また来年花が咲きますが

実はその花は去年咲いた花ではありません。

別の命の花です。

同じ枝についている花でも、それぞれ別々の命なのです。

今日我々がいただく食事だって、その食事に出会うのは今生で一回きりであります。

我々の身の周りにあるものは、本当にそれっきり、一回きりの「出会いと別れ」がセットになった儚い命に包まれているのです。

そう考えると、悲しくなってきますよね。

しかし、だからこそ今日頂く食事を味わう事が出来、今咲いている花をしっかりと眺める事が出来るのです。

「一期一会」とはよく言ったもので、何もこれは人の出会いだけではなく、無常の世を生きる我々は

その無常を自覚をし、すれ違う儚い命との出会いを大切にしなければならないのです。

従って、「無常」の自覚がなければ、その儚い命にも気づかず、あろうことに自分の命がいつまでも永遠に続くのだと

錯覚し生きながら夢の世界で生き続けるのです。

一体どれだけの幸福の時間、体験を捨てているのでしょうか?

花が美しいのは一回きりの儚い時間を一心に生きるから、この無常の世に美しい花が創造されるのです。

我々の目標は、今生での成仏です。

その為にはまず無常を自覚し、すれ違う儚い命との出会いに感謝し、今与えられた事を懸命にこなす事が大切になります。

その姿は、美しい花の様に清らかで、疑う余地なく仏であります。

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