住職の日記

サバイバル

裏庭の千両を鳥から守る為に、袋を被せました。

今、日本は晩秋を迎え、静寂に包まれておりますが、一方で

鳥達は食べ物が少なくなり、サバイバルな状況を迎えております。

「食べ物」が無くなると、こうなるのかと思うと、改めて食べ物の重要さを

感じますね。

ですが、我々は「今は」潤沢な食べ物に囲まれているのですが、それでも満たされないのは何故でしょう。

それは、「煩悩」があるからです。

そして、その煩悩の根本になるのは、三毒であり「貪 どん(貪る)」

「瞋 じん(怒る)」「癡 ち(無智)」の3つであります。

こうして、仏の教え(真理)に疎く、無智つまり智慧の無い状態(無明)であれば、満たされることはなく

どんなに得ても足りず貪り続け、そして満たされないことに怒り、そしてそれに伴い争い事が生じるのです。

これでは物や食べ物がたくさんあっても、永遠に穏やかにはなりません。

ですから、一生懸命「物質的な豊かさ」を増やしても、解決しないということになるのです。

ということで、諸悪を生み出す煩悩の根源である「無明」をどうにかしないといけないのです。

そうでなければ、殺伐としたサバイバルな状況は終わらないのです。

そう思うと…蹴落としたり、騙したり、人を落としえたり、いじめたり、差別したり

自分だけ得しようとしたり、気に入らない人を殺したりなどなど

物があるだけで、実際、我々の周りでは各々が自身の欲望をかなわんが為の

サバイバルな状況であるのです。

そこで大切なのが、仏法なのです。

みなさんもご存知の通り、仏教はお釈迦様によって説かれました。

そして、そのお釈迦様は誕生された際「天上天下唯我独尊」という言葉を発せられたと言われています。

唯我独尊というと、「自分こそが誰よりも尊い」という意味で捉えがちでありますが

広義的に見ると「我」が指すのはお釈迦様だけでなく、「個々」という意味があり

「自分が尊い」はなく、「それぞれ(個々)が尊い」という意味であるのです。

しかし、我々人間は、自分(こそ)が優れていると勘違いし(無智)止めどなく貪り、

満たさなければ怒り、自他共穏やかではなくなるのです。

そうではなく、それぞれの命が平等に尊く、自身が何かと比べ上でも下でも無いと

広い視野と謙虚な心が必要となるのです。

その為には、自身を見つめ直すことが大切になるのです。

「如実知自心」といって、自分自身を包み隠さず知るということです。

自分をなんのこだわりなく見ると、あまりの不甲斐なさ、悪業重ねている姿に

「耐えられない」と目を覆いたくなりますが、よくよく見てみると、キラリと

光るものが有るはずです。

実は、我々の心は本来満月の様に煌々と輝いていて、煩悩(雲)によって覆い隠されてしまい

本来の姿を忘れてしまっているのです。

従って、この煩悩を払えばいいのですが、ご存知の通り煩悩は無限に湧いてくるのです。

ですから、そうしたキリのない、行いはやめ、先ほどの光を頼りに

自身の真実を見つけることが大切になるのです。

真実とは、自分の本来の姿です。

自分という存在は「○○」という名前ではありません。

それは呼称であり、真実は方便なのです。

方便とは御仏の命の働きとも言えます。

仏様は誰に対しても、24時間、命を生かす慈しみの光を施しているのです。

つまり、我々にもそうした、誰かの為に役立つ方便が必ず有るのです。

後は、それを究竟とすることが大切になるのです。

そうすれば、その満月を覆っていた雲(煩悩)もエネルギーとなり

その悟りを求める心(菩提心)を増大させ、後は御仏の如く周りを照らすのです。

それを御仏から我々に授かった「智慧」と言うのです。

自分自身の心を包み隠さず見れば、自身も汚れていると覚り

他よりも優れているという事が勘違いであると、確認でき自我の肥大を抑制できます。

ですが、自虐的になるのではなく、自分にも必ず人の役立つ行いがあると、確認できます。

後は、それを磨いて、灯火(智慧)として、迷い(無明)の状況から脱却するのです。

無明とは智慧が無い状況(無智)であり、無明から、貪りと怒りが生まれるのです。

この世のサバイバルを収めるためには、仏法が必要不可欠なのです。

仏法は簡単に言うと、反省ということでしょうか。

反省は生きる力を生むのですね。

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