住職の日記

見ざる言わざる聞かざる

参拝者の方から来年の干支の猿を頂きました。

しかも、左から見ざる言わざる聞かざるの三猿です。

見ざる。

言わざる。

聞かざる。

日本では、日光東照宮で三猿が有名ですね。

調べましたところ、三猿は世界的にも「Three wise monkeys」として有名で

歴史も深く、古代エジプトやアンコールワットなどでも、三猿のモチーフが見られ

シルクロードを渡り、中国から日本に伝わったとされます。

そして、見ざる言わざる聞かざるは儒教の四書のうちの「論語」という書の中の

「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動

(礼節にそむくことに注目してはいけない、礼節にそむくことに聞いてはいけない、

礼節にそむくことを言ってはいけない、礼節にそむくことを行なってはいけない)」とあり

一説にはここから来ているのではないかと言われているそうです。

…「見ない、言わない、聞かない」とありますが…。

裏を返せば「見たい、聞きたい、言いたい」と言うのが人の本音でしょう。

知る権利、表現の自由などなど。

今は様々な情報を知るとともに、発信もできます。(誰もが)

ですが、その反面偏った情報も有ることも事実であります。

ですから、そうした偏った情報を鵜呑みにして、「善」とか「悪」とかを判断しては

とんでもない事になってしまうのです。

例えば、TVで何か不祥事があって、マスコミが騒ぎ出します。

絵面では、まるで極悪人の様に仕立てられている人も、実はTVに映らないだけで

素晴らしい善行をされていることも有るかもしれません。

我々は一つの情報で、それがまるっと悪と決めつけ、そしてそれを確かめもせず

「○○は悪だ!」ペラペラと話してしまうのです。

穏やかではありませんよね。

そして、それを吹聴する自分は?ということはさておいてです。

では、そうした礼節を欠いた情報を極力「見ない」「聞かない」事が望ましいですが

中々それを、今の情報化社会に求めても、今度は反対に不便になってしまいます。

従って、そうした偏った虫食い情報は、話半分にしておかなければ

正しく物事を見れずに、暗闇にを彷徨うことになるのです。(当の本人は明るいと思っていますが)

従って、全ての存在(自分も含め)に善と悪が備わっているという、智慧が大切になってくるのです。

そうした、智慧が宿れば、「例えばあの人○○だからダメだよ」と聞けば

「じゃあ、○○はできるんじゃない?」と欠点の裏が利点でもあると自覚ができ

命を活かす事ができるのです。

そして、自分自身も「ダメだダメだ」と思い込んで、押し込んでしまわずに、

「自分は○○で人の役に立ちたい」とこの尽くし合いの、この世に参加できるのです。

迷いの人は、何でもかんでも善と悪に分けたがりますが、それは豊かな生き方ではありませんね。

「見ない、言わない、聞かない」では、聞こえはいいですが、現実的には難しい生き方であるので

自身に智慧を宿し、正しく(何事にも因われることなく)物事を見る(正見しょうけん)事が

こうした情報が矢のように飛び交う情報化社会に必要となるのです。

情報を毒矢にするにも、御仏から送られてくる、矢文とするのも、自分次第で有るのです。

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