霧の向こうでは…
夏の風物詩、桃を頂きました。
この恐ろしい暑さとは裏腹に、芳醇な香りで幸せな気持ちにさせてくれます。
よく冷やして頂きました。
さて、一つの物事を角度を変えて観る事により新しい境地が生まれる事があります。
例えば「幸せになる」という事をとっても、「資産は○○円以上になってから」「役職は○○になってから」
「今は確かに不幸だけど、その時まで我慢するわ」と幸せは遠い未来においている人もいます。
もちろんそれはそれでいいのですが、今すぐに幸せを感じれる方法も覚えていてもいいのではないでしょうか?
そして、そちらの方が幸せの時間を増幅出来ます。
「今は不幸だ」と決めつけていると、当たり前ですが心は穏やかではありません。
恐らく「あの人はいいな」「あの人を見習いなさい、あんたとは大違い」「速く幸せになるといいなぁ」こんな事を
口々に言っていることでしょう。
当然ながら周りにいる人はたまりません。
よって、その目標を達成しても、周りを静かに見渡せば誰も人は寄り付いていないでしょう。
果たしてそれが本当の幸せになっているのでしょうか?
そして、幸せは感じる能力を要しますので、今まで幸せを感じる努力を怠っていたわけですから、感度は悪いはずです。
したがって、目標うんぬんより幸せを感じる能力を養う事が先決であります。
弘法大師空海様にこんなお言葉があります。
「 頓に三妄を越えて心真に入らしめん。霧をかかげて光を見るに無尽の宝あり」
私なりに解釈すると固定観念や常識からくる迷いを超えて、真実の世界に入り、迷いの霧を払い真実の光を浴びることにより、宝を発見できるという事です。
先程の話の通り「○○でなければ幸せになれない。」「○○がなければ幸せになれない」こうした固定観念を持つことにより迷いが生じるのです。
しかし、月が霧に覆われていても、月の輝きは失われたわけではありません。
霧の向こうでは煌々と月は輝いているのです。
したがって、固定観念や常識とされる物に囚われず、霧の向こう側に行かなければなりません。
そうすれば、「幸せ」を感じる事は「いつか」とか「いずれ」ではなく、何なら「今すぐ」出来るのです。
このブログでも何回もお話させていただいていますが、高校バスケの名門に秋田の能代工業があるのですが
今や高校バスケを志す物で知らない者はいないというくらいの超名門ですが
その昔は背が低く、あまり強いチームじゃなかったのです。
しかし、能代バスケの礎を築いた加藤廣志監督が就任した際に、背が低くゴール近くでの戦いに苦戦していた為に
攻守の切り替えの早い走るバスケットを編み出したのです。
背が低いという事は、俊敏に動くことが出来ますので、スモールライナップの能代にはうってつけだったのです。
そして、全国制覇を何度も達成する超名門校までのし上がったのです。
きっかけは何か特別なトレーニングをしたとか、練習時間を膨大に増やしたとか、設備投資をしたとかではなく
「視点を変えた」ことだけです。
バスケではリングに近いために背の高い選手が有利とされるのが常識です。
しかし、その視点を変えれば「リング近くで勝負しなければいい」「背が低い方が俊敏である」と、宝
つまりその選手にまたはチームの特性が生まれてくるのです。
常識や固定観念からくる囚われを掻い潜った結果、その選手やチームにしかない、かけがえのない宝に出会えたのです。
その常識にとらわれていたならば、膨大な時間、予算そして宝を見つけられずに、花開く前に卒業してしまう選手を沢山生み出していた事でしょう。
霧を払い如来の光を浴び、かけがえのない宝を見つけましょう。
後はそれ大事に磨き続ける事です。
逆にいうと、不幸であると言い張るなら、「私は傲慢です」宣言しているようなものです。
この無常の世ではそんな言い訳が出来ないのです。
何て厳し世界でしょう。