公園の木々の葉もだいぶ生え変わりました。
常緑の木でも確実に変化しているのですね。
我々の命も両親、祖父祖母と脈々と先祖へ続きそうした命のリレーのおかげで存在しているのです。
ですがもし、これらすべての人々が生きていたらどうなっていたでしょう?
確実に食料は足りなくなり、すべての存在が息絶えていたことでしょう。
つまり、言い換えれば、そうした祖先の「死」があるから、我々の「生」があると
言っても過言でも無いですね。
こうした祖先の命が、息絶えこの世に流れる虚空の世界に冥合していき
循環され様々な形で我々に命を施し、我々を生かしてくれるのです。
つまり、こう考えると生も死も無い事に気付きますね。
我々は食事をする際に、様々な命の施しを受けますが、その受けた命は我々の命となって
我々の中で生きるのです。
ですから、死んだとされる命は別の形で活動していて、反対に生きていると思い込んでいるけど
実際は生かされてない命もあります。
だから、「生死」というものは我々が思い込んでいるだけでそれらは本来ないのです。
では生きて輝く命って何なのか?と考えた際に、それは他の為に働きかけているかどうかでしょう。
人が動くと書いて働くと書きますが、人の為に動く事が大切ですね。
そして、我々の命の正体は「方便」であります。
これは手段とか手だてという意味の他に、御仏の命の現れとも言います。
名前は呼称に過ぎません。
ですから、その方便を全うしている時自分の命はイキイキと輝くのです。
悟りは目覚めると言いますが、目覚めるのはその真実にです。
そして、そのヒントは成り立ちです。
自分という存在が起こったルーツですね。
まず確固たる自分は無いと考えると、いろいろな存在の手ほどきを得て
成り立っていると気づきます。
ですから、その施しをしてくれる存在への感謝がまず第一歩なのです。
ですから、亡き人や先祖の供養の気持ちと言うのは、自分を成り立ちを考えた際に
自然に起こるのはうなずけますね。
…GWはレジャーに行かれる方々も多いと思いますが、当山の場合お墓参りに見える方々多いのです。
日本人は理屈ではなく直感的に先祖への感謝の気持ちが湧いているのだなぁと感じる次第であります。
これが「日本人は謙虚」と言われる所以なんだと思います。
木々の葉が生え変わり、先祖を尊ぶ檀信徒の方々の姿を見て思った事はそんなことです。