目的と手段が転倒すると
公園の池のカモ。
穏やかに泳いでます。
ですが、水中では懸命に足でかいて泳いでます。
美しいもの、綺麗なもの、穏やかな物、それらにはちゃんとした裏付けも有るのですね。
さて、我々はなぜ学問を学んだり、仕事をしたりするのでしょうか?
それは言うまでもなく、穏やかな生活を送るためであります。
知識やお金がなければ豊かな生活は送れませんから、大切なことです。
ですが、それらはあくまでも「手段」なので、それが目的では無いはずです。
これが、ひっくり返ってしまうと、「勉強しなければならない」「仕事をしなければならない」
という事にとらわれてしまい、本来の目的を失われてしまうのです。
仏道で例えますと、「悟りを開くために修行をする」ようなもので、悟りを開くためにと
囚われている時点で、悟りへの道が遠のいているのです。
従って、悟りへの道は、今すでに幸せなんだと気づき、そのことを忘れずに穏やかに生きていく
事であるのです。
仏「へ」の道ではなく、すでに我々は仏の一部何だと気づき、仏「の」道を歩んでいくということでしょう。
つまり、学問を学ぶ事も仕事をすることも、すでに豊かな生活の一部であると言えるんでは無いでしょうか?
今日も健康に仕事をさせて頂く喜び、平穏に学問が学べることの幸せ
まぁこれだけ豊かな国でそれを気づく事は難しいのかもしれませんが、突き詰めればそういうことだと思います。
従って、不幸になりたくないから勉強するとか、仕事をすると思っている時点で自ら
「わざわざ」不幸になっているのです。
その後、どうなろうと幸せを感知する能力がなければ、いつまで経っても不幸のままです。
結局、心おだやかに道を辿れなければ、得るものもあるかもしれませんが、失うものも一緒くらいなので
何も変わっては無いのです。
私も結構いろんな業種の方とお会いするのですが、「いやー不景気ですわぁ」といつも言っている方もいれば
「こんな物が出来ました」「これ結構評判いいんですよ」と仕事を楽しんでいる方もいます。
あなただったらどちらと、関わっていたいですか?
言うまでもありませんね。
従って、目的と手段が転倒したままだと、不具合が生じるのです。
我々は、穏やかな生活をしていくためには、お金や知識が必要です。
しかし、お金や知識にとらわれてしまうと、目的を失ってしまい幸せを感じにくくなってしまうのです。
幸せ「へ」の道ではなく、常に幸せな道をたどる事が、真の幸せなのでしょう。