生と死は表裏一体
彼岸花の一種、夏水仙がひっそりと咲き出しました。
朝夕涼しくなり、確実に秋になって来てますね。
もう8月も残すところ二日です。
学生さんはどうか宿題の方しっかりとやってくださいね。
さて、楽しかった夏休みもいつか終わりが来るように、我々人間も必ず、絶対終わる時が来るのです。
そして、それは夏休みのように8月31日と決まっているのではなく、ある日突然来るのです。
仏教に「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があり、生きる事と死ぬ事は、一見別物ととらえやすいですが
そうではなく、生と死は表裏一体なのであります。
生と死を分け、死というものを遠ざけると、「生」が薄まると言います。
つまり無常という事を忘れると、「いつまでもこの時が続くんだ」とこの一瞬一瞬の時間の尊さが感じられなくなり
次第に慢心が生まれ時間を貪り浪費してしまうのです。
こうして仏教が生と死を分け隔てしないのは、無常という存在をそばに置くことで、「今を生きる」事の尊さが
深く身に刻まれるのです。
ネガティブだねぇと思われるかもしれませんが、苦を知らなければ、本当の幸福にたどり着く事は難しいのです。
確かに、無常の存在を考えない様にして生きて行く事も、しようと思えばできますが
つけは何時か必ず回ってきます。
無常という存在を覚悟して生きることで、体に免疫を作ることが出来、例え生老病死の苦しみに直面しても
慌てることなく、乗り越えていけるのです。
逆に、無常をあえて考えずに生きていると、免疫が体に出来ていませんので、ダメージは非常に大きいのです。
歩むことが出来ずに、深い森に迷い込んでしまうのです。
生を授かった以上、死は免れられません。
しかし、ネガティブになる必要もありません。
無常による「死」を覚悟をして生きれば、生が深まり、とても充実した時を過ごすことが出来るのです。
そして、自ずと「今」何をするべきかわかり
踏みとどまる時間を大幅に減らすことが出来るのです。