地元大草の新米と、鬼崎の海苔。
本当にこの鬼崎の海苔は柔らかく味も美味しいです。
この鬼崎の海苔は、伊勢湾でも内湾で波が穏やかで海苔が柔らかくでき
また、木曽川から流れる栄養素がちょうどこのあたりに流れ着くことから
柔らかく味の良い上質な海苔ができるそうです。
…改めて、「環境」というのは重要だなぁと思いました。
ですから、自分がどんな環境に身を置くかはとても重要になるように思います。
…お釈迦様の弟子である、アーナンダはお釈迦様に「善き友を得ることは、仏道の修行を
半分は成功しているのでしょうか?」と聞きました。
するとお釈迦様は「いいや、善友に巡り会えたなら半分ではなく完全に成功しているよ」と
答えられました。
そして、別のところでも「八正道(正しい道)を実践する人にとって、その道を完成する条件は
善き友を得るだけです」ともおっしゃられています。
つまり、善い人と交わっていると、自分もそうなり、悪い人達と交わっていると
自分も悪くなるということですね。
それぐらい、環境が自分に与える影響は大きいということです。
ですから、環境や人と言うのはとても大切なのですね。
…しかし、「環境選び」そして「友人選び」は大変重要であるのですが、そう言うと自分に取って
善いと間違った解釈をされそうになったり
自分の実力以上の人たちに囲まれたからといって、「もう安心」と本来の目的の
修行を疎かにしては何にもなりません。
忘れてはいけないと思うのは、自分もその善い環境の一部でなければならないのです。
その環境に身を置いている「だけ」で誰かに高みに連れててってもらろうと
そんな人ばかりが集まりだしたら、その環境も悪になりかねません。
…結局「善い環境」「善い友達」を得ようとすると、考え方の軸が自分にあると、自分にとって善い縁「だけ」を
得ようとしたりして、自分自身がいいとこ取りしたいという迷惑な「環境(人)」そのものになりかねません。
前提として、人は人も環境も変えることができない、小さな存在で有るということから
始点がなければならないということですね。
つまり、「自分の町にも上質な海苔が作りたいから、ここに穏やかな海を作り、大きな河川の栄養を
この海岸に届くように川を作れ」と言っているようなものです。
こんな人本当に迷惑でしょ?
海苔は確かに美味しいけれども、そんな大掛かりな事したら、今そこにしか無い大切な物も無くすわけです。
そうではなく、「この環境において自分はどうあるべきだろう」と言う位置から始める事が大切になるのです。
そうした、利他的な心構えを持っている人が集まれば、その地は良い地域になると思うのです。
良い地域、町は、そこに住む人の総体であり、つまりは「人」です。
自分の町は優れた目玉が無いということで、縁もゆかりもない物をドカンと作ったところで
本当にいい街になるとは思えません。
善い環境選びの落とし穴は、こういう自分のわがままに当てはまらないからダメと決めつけている
こともあるのです。
ですから、そうではなく、謙虚に利他的な心を持つことが、本当の良い環境づくりには欠かせないと思うのです。
そうした自分側からではなく、周りからその環境に置かれている自分を見て、「自分がどうあるべきか」と
実践することが大切ですね。
「自分のところは何も無い」とか「自分は最悪です」と自分の置かれている環境の悪さを決めつける前に
少し視点を変えて見ると、良い環境にガラリと変わる可能性はあると思います。
長所は短所、短所は長所であります。
環境は変えることはできないけれども、集まる人によって善い部分は作れると思うのです。
この世は確かに苦海かもしれませんが、それぞれが菩提心を起こせば、汚泥に浮かぶ蓮の花を咲かすことは
できるのです。そして、その種は皆に平等に備わっているのです。
諦めずに、まずは自分ができることから実践して、最終的には善き友とそれを実践して
皆で彼岸へ渡りたいですね。