住職の日記

煩悩即菩提

煩悩即菩提

犬の散歩で公園を歩いていたら、どんぐりがもう落ちていました。

気づけば8月も今日で終わりです。

何か冷たいものばかりとってきたので、鍋など温かい食べ物が頂きたいですね。

さて、地蔵寺の周りはこうして自然に囲まれているのですが、本当にこの自然というものは

様々な事を教えてくれます。

例えば、この森に転がっているどんぐり一つにしても、「因縁果」というこの世に流れる縁起の法則を学べます。

春、雌しべが虫や風に運ばれてきた雄しべの花粉を受粉し(因)、太陽の光、二酸化炭素、水などの施し(縁)を

受けて、この秋にどんぐり(果)がなるのです。

この、どれがかけても「どんぐり」という物は成り立ちません。

だから、様々な施しを謙虚に受け入れていかなければならないということなのです。

そして、受け入れた物を他の為に施す事で、この世の真理である虚空の流れに合わさることが出来るのです。

ということは大きな布施をするためには、器を大きくして、たくさん施しを受けれるようにしなければなりません。

器が小さくて、布施だけが大きいなんて出来るはずもありません。

弘法様は「大欲」の持ち主であったと言われています。

大欲って言っても私利私欲の為に使うのではなく、たくさん受け取り、それをすべて他の為に

施す事であります。

人の煩悩というものは、一般的には悪いものと言われていますが、見方を変えれば大きな生命エネルギー

になりうる素晴らしいものなのです。

従って、密教では菩提心を起こし、こうした煩悩をも抱き込んで、矛盾なままに悟りの世界を目指すのです。

「人に役立ちたい」という願い(因)も、その燃料つまり欲(縁)がなければ、人を救うこと(果)は出来ません。

そして、そこに加えて知識、人脈、自分の力、実績などなどの縁も必要となるのです。

だから、「欲」や「知識」「技術」と言うのは大きければ大きいだけ、たくさんの方を救えるということになりますね。

ですが、これらも私利私欲に利用されれば、逆効果になるでしょうけど。

こうした大法器を、弘法様に備わった要因になったのが、若かりし頃、大学を辞め、山での修行生活を送ったことにあるのです。

厳しい大自然の中で、念誦し修行を行っていく中で、自然と人が別々に存在していないと(不二)悟り

何でも呑み込める法器が出来上がったのです。

どんなに、「こうしたい」と思っても、思っているだけでは果はなりませんから

その果と因を結ぶ縁を受け入れていかなければならないのです。

その為には、器を大きくして欲も知識も力も蓄えなければなりません。

その器を弘法様は厳しい山野の修行で備えられたのでしょう。

山野の厳しい修行ということは、不便極まりない生活でありますので

自分のしたいことと言うのは二の次三の次どころか、考える有余が無いくらい厳しいものでしょう。

「今すべきこと」をしなければ=「死」を意味しますから、正に無我の境地です。

無我ということは、自分がないということで虚空と冥合したといえます。

…今便利なものが普及し、合理的な生き方が出来る、幸せな時代です。

しかし、便利なものに頼りすぎて、「こんなもんだろう」と煩悩を無下に捨ててないだろうか?

大欲を持たず、アイツは悪い、これは嫌いとそんな論評に時間を費やしてないだろうか?

私は真言宗をロケットみたいな物だと思うのです。

「宇宙」というものをメディアを通じてではなく、実際に見るためにはどうしたって「宇宙へ」

行かなければならないのです。

その為には、技術、人の力、資金などなどの燃料や縁が必要となり、その為に布教するのでしょう。

そして、ロケットを作り、皆で宇宙に渡る。

その過程の中で「本当にこんなので行けるのか?」と文句も言う人もいるでしょうし、

「別に宇宙に何か行かなくてもいいのでは?」と言う人もいるでしょう。

そうした意見を持つ人をも受け入れ、何か共通点がないかと、不二の発想をもって引き合わせて

「皆で」行くのです。

だからたくさん受け入れられる、器が必要となるのです。

大器を備え大欲を持ち、善も悪もすべての矛盾を抱えてロケットを作り

宇宙(彼岸)へ飛んでいきましょう。

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