住職の日記

ヘチマの花が咲いてました

ヘチマの花が咲いてました

犬の散歩中ヘチマの花を発見しました。

雨に濡れた黄色い花が鮮やかでいいですね。

ヘチマがなるのは、9月か10月頃なので、また楽しみです。

こうしてヘチマがなるのも、雄しべの花粉が風や虫の体について雌しべに運ばれていき

受粉し、子房というところで種が出来て、実がなるのです。

ヘチマという「果」が成るためには、花粉の「因」とそれを運んでくれる虫や風や

そして太陽の光や水や二酸化炭素などの様々な施し「縁」によって成り立っているのですね。

そのどれが省かれても、果は成りません。

「縁」を大切に、そして「志」を大切にしなければ、果は実らないのでしょう。

「結果」の「結」とは相互扶助という意味もあります。

自分では出来ないことを他人に補助してもらい、反対に自分が出来ることで相手を

互いに支え合い生きていくのです。

我々の人社会も一言で言うとこの「結い」で無いでしょうか?

自分は家族をはじめ地域の人、そして様々な命の施しによって生かされていて

反対に自分も誰かに尽くしているのです。

どう理屈をこねようと、我々は生かされているのです。

従って、この人社会に身を置いている以上人としてその施しに懺悔の念を感じなければ

不味いことになりますよね?

「社会が悪い」「世の中が悪い」と言いますが、残酷かもしれませんが

そんな事言っても世の中は変わりませんし、唯一変われるのは自分だけなのです。

しかし、「自分が」と自分に執着が働くと、生かされているという意識が薄らぎ

施しへの懺悔の心がなくなり、謙虚でなくなります。

謙虚でなくなれば、もうそれ以上受け入れる事ができなくなります。

しかし、この世は無常であるので変わり続ける事になるので、ズレが生じるのは言うまでもないでしょう。

地域の人と人のつながりが希薄になったと言いますが、グローバル化が進み、そして便利な道具が浸透していき

昔に比べると、そうした近しい人々との関わり合いが減っていっって、それに伴い生かし生かされるという懺悔の心

が薄らいで行ったのかもしれません。

そこで、お寺や地域の行事が大切になるのです。

そうした行事を執り行うことによって、皆で何かを作業し、成し遂げる事によって、一体となることが出来るのです。

「普請」という仏教用語がありますが、道を直す時は「道普請」、寺を直すときは「寺普請」と使われる等に

普くに力を請うて、何かを成し遂げる事を言います。

そうして、目的達成のために、皆それぞれ自分の出来ることで協力しあうのです。

そして、普請とは「結い」とも言いますように、こうして苦難を皆で支え合って乗り越える事によって

因と縁が和合し結果が生まれるのです。

我々は結果だけは欲しがりますが、それまでの過程を大事に思う人は少なく思います。

そうではなく、如何に自分というものを微細に砕き、様々な施しを受けて生きているのかという

「罪」を感じ、利他の行いをすることが大切になるのです。

そうでなければ、「和」になれませんね。

仏の世界は「円」と例えられるように、この世に流れている真理に溶け込む為には

自分という確固たる存在を削り溶け込んで行かなければならないのです。

でも、削り過ぎはダメですから、その辺の加減はしなければなりませんがね。

便利になればなるほど、合理的なればなるほど、自分という突起物が出やすい時代ですが

真理は何も変わっていないのです。

それは永遠に変わることは絶対無いのです。

絶対的な真理に、無常の風にフッと簡単に飛ばされてしまう微力な我々人が立ち向かったとこで

どうにもなりません、残酷かもしれませんけどね。

ということは、仏の教えというのは我々がこの世界で穏やかに生きていく為に残した

智慧となるのです。

智慧がある人は罪を感じられる人、謙虚な人であるのですね。

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