参拝者の方から柿を頂きました。
時のものですね。
自宅の柿の木から採れたそうで、無農薬だそうです。
無農薬はいいですね。
…消毒されたり、農薬をかけられるのは、何も野菜だけではありません。
我々人間も知らず知らずのうちに、消毒されたり、農薬をかけられているのです。
もちろん、本当の農薬ではありません、じゃあ何かというと、「○○でなければならない」
「○○でないと不幸」「○○できなければ不出来」などという、常識や道徳や、情報で
我々は、しっかり消毒されているのです。
そうした、消毒液を浴び、「みんなと違う」「自分はダメだ」「自分は不幸だ」などと卑下し
自身の命を育めず、摘んでしまうのです。
基本的に、法律を起こさないかぎり、後回りに迷惑かけないかぎり、「○○しなければならない」
と言う縛りはないのです。
「ありのまんま」でいいのです。
何故なら、それぞれ違うのだから、違って当たり前なのです。
それを唯一の正道は「これだ!」と断言することこそ、邪道なのです。
反対に全部一緒の形や色の物は反対に何かあるな、と思ったほうがいいですね。
とても不自然ですよね。
…そこで、毒された我々の解毒剤になるのが、仏の光なのです。
この、仏の光は、常識や道徳という雲をすり抜け、我々に降り注ぐのです。
御存知の通り、仏の光とは、命を育む光であります。
我々に本来備わっている、他に尽くすための方便を育んでくれるのです。
「○○でなければならない」ではなく「○○では無いけれども、自分は○○はできるぞ!」と
命がピョンと芽吹くのです。
それが本来我々に備わっている色(個性)なのです。
それを一色単に塗り替えようと、すること自体、傲慢で野蛮な行為なのです。
こうした、本来備わっていないといけない、智慧が備わらない以上
知識を詰め込んでも、お金を持っても、争いはなくならないのです。
「いじめはいけません」という大人が「○○でなければ駄目だ」という偏見や差別をして
いじめをしているのだから、いじめはなくなるはずがないのです。
ナイフや、銃でないだけで、そうした情報によって傷つけ、時には命を奪っているのです。
それを、知らずに行っていることが、一番の問題ですが。
何が問題かわかりもしないで、何かを悪にしたて、それを懲らしめる正義の戦士。
根本がずれていれば、永遠に悪が作られ、それと戦う正義の味方が生まれるのです。
ですから、そうした修羅同士が戦う、地獄から脱却するためには
仏法を拠り所として、抜け出すことですね。
その戦いは割に合いません。