周りはどうではなく…
何ともう四季桜の第一号が咲き出しました。
まだ、8月の半ばですが、早いですねぇ。
これから順々に咲きだしていき、10月ころには見頃を迎えるでしょう。
そして、その後はチラチラと、来年の3月ころまで花が付きます。
この間は葉が落ちて花が少なくなり、境内が寂しくなるので、この四季桜があると皆が大変喜んでいかれます。
さて、周りはこうして落葉していき、ツルッパゲになって寂しくなっていく中で
こうして、可憐に咲く四季桜の花を眺めると、感銘を受けます。
どうしてかというと、例えば我々は「○○した方がいい」という情報が入ってきたら、まず多くの人は
「他の皆はどうだ?」となるのです。
多くの人がやったら、自分もそれを行い、皆が辞めたら、自分も辞めるのです。
「これが流行っている」となったらそれに飛びつき、「これはもう終わったよね」となったら
ポイと捨ててしまう。
「まぁ、日本は和を重んじるからでしょう」と思われるかもしれませんが、このどこが「和」なのでしょうか?
和ってそれぞれの個性をそのままに、認め合うことです。
流行によって左右されて、主体性が全然無いことを「和」といいません。
この世は、互いに認め合う、尽くし合う世界なら、自分も誰かに尽くさなければなりません。
つまり、「あなたは他のために何ができるの?」という問に答えなければなりません。
そこで、主体性がなく流れていれば答えられず「えっと…」と迷うのです。
こうした曖昧な姿勢は、場面が変われば「死」を意味します。
もちろん、仏様はどんなことがあっても見捨てたりませんが
我々資本主義社会で生きている「人」は厳しいようですがそうは行きません。
これだけ物が溢れ、情報が溢れ、そんな時代に、よっぽどカッコ良かったら別ですが
誰もそんなに足を留めてまで見てくれません。
従って、私は「これできます」と分かりやすくすることが、まずは大切になるのでしょう。
ですが、「出来ること」でも好きだったり、したいことではなかったら、継続は出来ません。
ですから、「したいこと」をすべきなのです。
「今は末法の世だ」ということを修行を止める理由にする必要にないのです。
反対に、その理由で修行を止める人は正法(釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代)の
世であってもしないでしょう。
世間や周りやっているからではなく、主体性を持ち、他の為に「したいこと」していればいいのです。
それに没頭していれば、周りはあんまり気にならなくなり、妬みや僻みと言った雑念も
その熱い思い(菩提心)によって焼き尽くし、この虚空の世界に一輪の花が創造されるのです
「すべき事」「出来る事」をすることは尽くし合うこの世で生きていく為には基本中の基本ですが、
その中で主体性を持って「これがしたい」という方便を見つけることが大切になるのです。
そうしないと、誰かの作った妄執の雲に光を遮られてしまいます。
四季桜を見て、思ったことはそんなことです。