住職の日記

子供のような…

子供のような…

公園の栗の木に栗のみがもうなっていました。

まだまだ、暑いですが、もうすでに小さい秋がちらほら見かけられます。

栗の実が落ちたのを拾おうとしたのですが、棘が痛くて中々持てません。

どうして、こうして棘があるのかというと、栗の実が成熟するまで、他の動物に取られないように

種の保存の為だそうです。

栗の実は渋みの成分は覆っている皮だけにあり、実は生でも食べられるくらいで

古代では重要な食料だったと言われています。

また、早く育ち、よく燃えるために燃料とに適していて、そして腐りにくく丈夫な木であり

木材としても使用されていたそうです。

正に、我々人間の生活を支えてくれる命の木でありますね。

さて、栗が出てきましたが、「三度栗」「弘法の焼き栗」「しば栗」など、栗に纏わる弘法様の逸話が

あるのですが、地域によっては様々ですが、その共通している部分は

巡錫の旅をしておられた「お腹をすかした弘法様」に、「子供」が「栗のお接待」をするということです。

その結果、栗が一年に三度なるようになったり、栗の木が大きくなったり

栗の木が低くなり、子供でも遊べるようになったりと様々な果報が得られるのです。

…こう聞くと、「じゃあお接待しなければ!」と果報を得るためにお接待をしだすかもしれませんが

それでは果報は得られません。何もせず寝てたほうがマシです。

何故なら、損得勘定が働き、執着が働いているので、「布施の行」になっていません。

「子供」というところがこの話でポイントだと思うのですが、子供は損得勘定があまり働きません。

つまり、弘法様だからとか、偉い人だからだとか、損得勘定で施したのではなく

お腹が空いて困っているから、栗の供養したのです。

そこに、見返りはありません。

だから、三度なる栗になったり、大きな栗になって沢山実が付くようになったり

遊具になったりと、果報が施した何倍ものになり返ってきたのです。

つまり、こうした話からは、子供のように見返りなく施しをする「布施の心」が

果報(幸せ)を得るためには大切だということなのです。

…しかし、子供でも大人になればほとんどの方が資本主義の社会にでるわけで

どうしたって、損得勘定を働かさなければならない事も出てくるでしょうし

それも出来なければ、生きていけません。

損得勘定も大切な価値観であるのです。

しかし、それだけの価値観に縛られてしまうと、心まで侵食していき、「損得勘定だけで動く人」

と我々の真実の「方便」が錆びつくことになります。

方便は御仏の命の働きとも言いますし、この世の真理そのものです。

つまり、命は動きの中になるということなのです。

その動きがとどまると、どこからか不具合が出てくるのです。

ですから、もう過ぎましたがお盆やこれから来るお彼岸などで、ご先祖様やお接待する(供養する)ことが

大切になるのです。

ご先祖様を供養するのは何の為?家内安全?商売繁盛?

それいではありませんね、ご先祖様に感謝の念を込めて供養するのだけなのです。

そこに、当然何の見返りはありません。

そうした、本当のご供養は、実はご先祖様だけでなく自分自身の供養にもなっていくのです。

これを仏教で「相互供養」と言います。

互いに尽くし合う、相互供養の姿は、正にこの尽くし合う仏世界であり、その姿は「即身成仏」なのです。

こうした我々の生活の中に布施の行いをとり言えることで

方便の錆びつきを抑えられることができるのです。

実(果報)だけを取ろうとすると、トゲトゲのいが(自我)が邪魔して得られませんが

因と縁を大切にして穏やかに生きていれば、栗の実のように熟した頃に後からぽとんと落ちてくるということですね。

因とは物事の起こり、この虚空の世界でどうして自分という存在が成り立つのか?

それは様々な縁によって成り立っているのです。

この基本に帰る事が、大切となるのですね。

果だけ狙いに行くなんて事は、怪我のもとですね。

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