受け入れると豊かになる
ところどころに穴が掘られているなぁと思ったら、やっぱり亀でした。
近くの公園の池から卵を産みに来ます。
さて、何でもそうですが、相手を受け入れてこそ、自分の存在が確立されます。
例えば、大日如来様、阿弥陀如来様、等の仏様、お地蔵さんや観音さんなどの菩薩様、お不動さんの等の明王様などと様々な尊格がおられます。
しかも、さらにその中にも特別なご利益をお持ちのお方まで存在します。
雨乞いのお地蔵様、眼病を癒すお地蔵さん、ガンを封じるお不動さん、愚痴を聞いてくれるお地蔵さんなどと
我々の背中の痒いところまで手が届くような、ありがたい方々ですよね?
ですが、随分的を得ていると思いませんか?
そうです、こういった何か特別なご利益を持った尊格と言うのは、実は仏教には存在していないのです。
では、どうしてこのような豊かな尊格が生まれたのか?
それは、仏さんが、我々衆生を受け入れてくれたからです。
様々な苦しみ悩み事は、とらわれない事により全ては解決するのですが、それが中々出来ないのも人間の心情であります。
正論は「とらわれない」ですが、その正論が本当に我々衆生に適正かと言うと、それは一概にそうとは言えません。
苦しんで深く悩んでいる人に、とらわれない事が大切だと言っても、それは逆に人を傷つけてしまう事にもなります。
したがって、仏さんはそんな悲しんでいる我々を見て、それを気持ちを酌んでくださり様々な姿に変化して立ち直るまで寄り添ってくださるのです。
日本にはお寺がコンビニよりも多く存在していると言われていますが、これだけ全国津々浦々お寺が存在しているのも、仏教と我々日本人が互いにその存在を受け入れたからです。
「俺はこう思う」「私はこう思う」→「だから君は駄目なんだ」となれば互いに豊かな生活は送れません。
「俺はこう思う」「私はこう思う」→「それもいいですねぇ」となれば互いに豊かな世界が広がります。
自分の個性、こだわりを貫く姿勢が時にはかっこいいという風潮がありますが、私はごめんです。
かっこわるくても豊かな世界の方がいいので。
一匹狼を気取ってかっこいいつもりでも、多様性のない、価値観が乏しい狭い貧しい世界なんて嫌です。
豊か(幸せ)になりたいのなら、まず謙虚に受け入れる事です。
謙虚に生きれれば、他人との心の垣根がなくなりますから、何を求めているのかもわかります。
何と言ってもこの世は価値と価値の交換です。
こだわりを貫き通しても、「君のこだわりなんて知らん」と自分の夢や理想につきあってくれる人はそうはいません。
残酷かもしれませんが、人々が考えているのは、正直自分の豊かさです。
だからこそ、他人の立場になり相手の幸福を考える事に意味があるのです。
他人にとって、自分の存在が役に立てば必ず、相手は受け入れてくれます。
「他の為にとは自分の為」と言うのはそういう事です。
謙虚になり、自他との垣根を無くせば、自分が今何すべきか?おのずとわかると思います。
それが、我々がこの世に生まれてくる際に仏さんから授かった特性なのです。