仏法はこの世で迷わないための旗印
もうすぐお盆ですので、ご先祖様が帰ってきやすいように
盆旗を立てました。
これで、迷わず帰って来れますね。
さて、この澄み切った青い空とは裏腹に我々の身を置く世界は物が溢れ、情報が溢れ、非常に豊かな時代と
言えばそうですが、非常に無駄なものも多く迷いが生じ心も荒廃していきやすい時代でもあると思うのです。
ではなぜ人は迷うのでしょうか?それは、無智だからです。
無智とは「知識がない」ではなく「智慧のない状態」無明であるということです。
この智慧の状態がない状態ですと、「あるがままに」物事を見つめることが出来なくなってしまうのです。
つまり、この智慧が無い状態で生きるということは、目隠ししたままでトラップが仕掛けられている道を
歩かされている状態です、そして当の本人は目隠しをされているとは知らずにです。
そこで、仏法に触れ智慧の灯火を心に宿す事が大切になるのです。
その為に我々は修行をするのでしょう。
この「修行をする」ということが大切ですね。
つまり、仏教の知識をたくさん頭に詰めたとしても、実際にそれを行動に移さなければ
意味が無いということなのです。
真言宗は言葉や文字だけでなく「象徴」を大切にします。
例えば、「曼荼羅」この世は仏の世界で、自分もその中の一部なんだと言っても
具体的にどんな世界なのか?わかりませんよね。
「目の前に大日如来さまがおられるぞ」と言ってもさっぱりわかりません。
しかし、曼荼羅で絵で表す事によって、その世界を字のわからない方にも分かりやすく
伝えることが出来るのです。
仏の世界は人知を超えた世界ですので、言葉で伝えても中々理解されません。
仏の世界は「感じる」ものなのです。
皆さんの仏壇にも鎮座されていると思います仏像やお堂や曼荼羅の絵と言うのは
仏様の世界(悟りの世界)を表現した、立体曼荼羅であるので、意味とか知識が無くても、人に無条件に
安堵を与えて、苦を和らげる効果があるのです。
お寺に行くと「とりあえず」落ち着くと言うのは、仏様のそういう計らいがあるのです。
従って、自分も少しでも、仏様の様な言葉や行動(仏道修行)をとって「感じる」事が大切になるのです。
この世は仏の世界と言っても、仏様の命の働きはすべて、動きの中にあるのです。
従って、自分も少しでも「行って感じてみる」事が大切になるのです。
少しでもその執着のない行動を取ることが出来たなら、心に少し容量が空けられて、冷静になり
普段の自身の行いを反省することが出来るのです。
そして、反省できたならば自分は生かされているという、感謝の念も取り戻すことが出来
謙虚になれるのです。
そして、そうして迷いながらも反省をして生きていく事で智慧が湧き上がるのですね。
‥‥仏を「感じる」という事は、受信をしなければなりません。
この電波を妨害する埃となるのが、「自我」であるのです。
これは知識を積めば積むほど、偉くなれば偉くなるほど、肥大していく物でもあるのです。
従って、如何に謙虚でいられるか?強く謙虚でいることを意識することです。
その為に、先ほども申しました少しでも仏様の行いをして、反省し心の洗濯をすることが大切になるのです。
こうして、少しずつでも良いので継続して仏(虚空)に近づいて行きましょう。
世法ではなく、法を拠り所とし、自身の辿る道を照らしていきましょう。