住職の日記

すべきことの中から…

番(つがい)の鳩。

仲良く電線にぶら下がっています。

つばめの次は鳩かぁ、地蔵寺はいろんなお客さんがご来山され賑やかです。

さて、、、、こう思うと人の眼は勝手だなぁと思うのです。

番の鳩を見て私は「仲睦まじい鳩の夫婦だなぁ」と判断したんです。

もしかして、喧嘩しているかもしれませんし、当の鳩に聞いたら(聞けるわけないけど)

「全然そんなことないです、いつも喧嘩ばかりですよ」と鳩もそんな自覚は無いかもしれません。

しかし、本人がどう思ってようと、どう見たって仲良さそうです。

つまり、評価は自分の意志ではなく、他の眼に委ねられるのです。

例えば、「自分は悟った」と吹聴したとします。

本人がどんなにそう自覚しても、それ周りが「この人は悟った」と判断しなければ、それは悟ったとは言わないのです。

「知る」と「理解」したは別問題で、知っただけでは理解したと言わないのです。

「人生は楽しむことが大切です」は大変ごもっともですが、

どれだけ「楽しい」と本人が言っても、顔色が悪く明らかに無理して笑顔振りまいていれば

誰も「楽しい」と認識はしないでしょう。

しかし、反対に自分では忙しくてひいひい言って切羽詰まっていても、それを他人が見たら

「とても楽しそうですね」と判断されることもあります。

当の本人は忙しくて、たまらないのにです。

だから嫌々やるならやめろと言うのでしょうね。

心と体はつながっていて、どんなに自分の心に嘘ついて、無理を行動しても

表にそれが堂々と出てしまうのでしょう。

本人は、取り繕っているつもりでも、相手の意識には自分の本音が透けて見えてしまうのですね。

だから「嫌ならやめろ」は、真理をついた言葉です。

他人の意識は自分を映す鏡となるのでしょう。

…ただ、生きていく上で、好きなことばかりでは通っていけません。

「一切皆苦」の言葉の通り、この世は苦で満ちているのです。

好きな事でも続けていれば、「絶対」嫌なこと苦しいことに遭遇します。

何故ならこの世は無常で、快楽は次第に不快に、変わるのです。

と思うと不快から始まる快楽も当然あるのではないでしょうか?

ということは嫌いから始まる「好き」もあるということですね。

この、縁で成り立つ世界で、すべき事、出来る事が我々がすべき基本中の基本の事ですが

自分の意志は度外視で、ある意味しなければならないと義務的な行動を強いられるわけです。

しかし、だからと言って、不幸かといえば必ずしもそうではな無いのです。

しなければならないという環境に身をおけば、そうせざるを得ないわけですが、見方を変えれば

新しい発見に遭遇できるとも言えるのです。

つまり、「全然興味なかったけど、やっていく内にやりがいを見つけたという」新しい発見です。

嫌いから始まる「好き」に遭遇できたのです。

話はそれますが、私が解せないと思うことは、これは学生時代のことなんですが遅刻したら罰として

「草取り」または「掃除」という事です、あと罰として「丸坊主」。

これ、罰になるのかなぁと思うのです。

はっきり言って、地蔵寺の仕事は、この草取り、掃除がメインです。

ですが、それも中々楽しいものなのです。

黙々とこなしていくと、心の中の整理が出来て、穏やかになっていくのがわかるのです。

後、丸坊主だってメチャメチャさっぱりして楽ですし、髪の毛とかでもう誤魔化せませんから

心穏やかでいようと、自身の内面と向き合えると言う効果もあります。

だから、罰としての掃除っていう位置づけがよくわからないのです。

そう思うと、お寺って掃除に草取り、正座に、坊主って世間での罰のオンパレードですね。

まぁ、掃除をして自身と向き合えってことなんでしょうけどね。

…もうお気づきだと思われますが、「楽しい仕事」は無く「仕事を楽しむ心」があるだけなのです。

楽しむ為には謙虚でなければなりません。

そして、その為には如何に苦難を超えられるのか?苦難を超えた量によって器のキャパが決まると言えます。

だから、「好きな事をしよう」「楽しい事をしよう」という流行りの言葉を、鵜呑みにして

逆に苦しんでいる人は多いのではないでしょうか?

つまり、全てに善悪が存在していて、苦の裏に楽、楽の裏に苦があるという「智慧」を心に宿すことが

何よりも大切になるのです。

そうした智慧があれば、相反する価値観を矛盾したままで一体にさせる事が出来るのです。

これを真言宗で不二の発想というのです。

一見2つ別々に存在している事柄も、実は一体であるという事です。

だから、何でも一生懸命取り組めば、周りの役に立つし、そして結果として自身も新しい好きなことや

楽しみに触れる事が出来るということです。

そういった意味で言うと、今は便利になった故にそうした出会いがしにくい時代になったともいえます。

ある意味不便な時代なのかもしれません。

そして、おまけに「好きなことしろ」「楽しめ」という虫食い情報がどんどん流れてきて

楽しめない自分に追い打ちをかけていくのです。

だから、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」「かわいい子には旅をさせろ」と言うのでしょうね。

何が好きかなんてやってみなければわからないですから、色々チャレンジして

苦難を乗り越えていく経験が、結果幸せの果実になるのでしょう。

我々はすぐに「名利」「結果」を求めてしまいがちですが、それは後からついてくるものです。

皆、果はすぐに欲しがるのに、果は過程があっての果であります。

その過程を大切に、楽しもうとする人は物凄く少なく思えます。

弘法大師という大師号(称号)は弘法様が入定(死後)87年後に醍醐天皇からその高徳を称され

贈られたのです。

だから、弘法様も大師になるために、布施の行をしていたわけでは無いのです。

結果としての大師なのです。

よって、智慧が心に宿っていれば、「今すべきこと」の中にも楽しみが見つけられて

「自分のしたいこと」と相反する矛盾する行為を一つに結わすことが出来るのではないでしょうか。

反対に無智であれば好きなことも嫌いになって、恐らく簡単にポイ捨てです。

ただ、好き嫌いに関わらず体力的とか状況によって、出来ない事はあるので、無理は絶対ダメですが

端から好き・嫌いと決めつけて行動しないというのは、将来、あんまり果実がならない木になるという

ことでしょう。

人が何かをして楽しんでいるのは、基本は人の役に立つ時、つまり縁起の法則に乗っかっている

時と言って良いでしょう。

どんなに自分が好きなこと、したいこと、それが人の役に立たなければ、中々継続は難しいですね。

そして、自分が今すべきことや出来ることが必ずしも不幸でも無いという事です。

楽な道はどこにもなく、いずれの道でも苦難を乗り越えていく事は強いられるので

自分が何したいという事も大切ですが、智慧が道を照らしてくれるに違いありません。

その為には、チャレンジしてみましょう。

新しい発見が見つかるかもしれません。

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