住職の日記

自分が合う/合わないではなく…

自分が合う/合わないではなく…

近所の方から頂きました。

今年初です。

地豆の塩ゆで最高です。

ご存知かと思いますが、落花生は花を咲かせた後自家受粉した後

豆のもとである子房が下がり、地中に刺さって、地中で実が膨らむそうです。

だから「地豆」や「落花生」というのですね。

なぜ地中に潜っていくのかというと、地中の暗闇や水分や圧力があるからと言われていますが

はっきりしたことは解明されていないそうです。

ただ一説には、種子を鳥などに広範囲に分布させるよりも、適した土壌に自らで繁殖させているとも

言われています。

環境は選べないといえども、自分に適した環境がそこに広がっているのなら、そこで強く繁殖するのも

一つの手ですね。

まぁ、地豆はいずれにしても美味しいです。

さて、仏教には因縁果という言葉がありますが、これは結果は因と縁で成り立っているという意味です。

つまり、どんなに○○したいと思っても、それなりの環境が整わなければ、その願いは成就しないのです。

例えば、この暑い夏の時期に雪でスキーがしたいと言っても、それは中々日本では無理な相談で

本当にしたいのであれば、ニュージーランド(ニュージーランドは6月から10月がシーズンらしいです)

にでも行ってスキーするしか無いでしょう。

つまり、縁の集まるところに、自分を持っていくことです。

ですが、そんなに時間が取れたり、金銭的な余裕もあればいいですが、中々難しいですよね。

ですから、「合う/合わない」ではなく、「合わせる」事が大切になるのです。

「○○したい」と言うのはある意味欲望です。

それが、自己中心的な起こりであれば、中々それが成就することは低いでしょう。

周りの環境が、必ずしも自分に合わせてくれるとは思えませんから。

それで、人々は「不満」「不足」を感じ、心が穏やかでなくなるのです。

何が原因か?言うまでもありませんが、自我であります。

自分という存在が、穏やかな生活を邪魔しているのです。

しかし、これが自分の置かれている環境を把握し、皆のために「○○したい」という

利他的なものであればそれは成就する可能性は高いですね。

それは、「縁起の法則」我々は周りに生かされているということなのです。

その為には、「自分がある」というその考えから改めなければなりません。

この世は、虚空の世界で、自他共に存在は本来無いのです。

しかし、様々な縁があつまったおかげで、自分という縁の塊が出来上がっているのです。

つまり、虚空を悟れば「自分が…」という起こりではなく、「皆の為に…」という利他的な

行動にならざるえないでしょう。

しかし、利他的な行動というのは、比較的反応もあるし、充足感は得やすいので心は穏やかになりやすいのです。

以前テレビで見たのですが、和楽器(三味線)と洋楽器(エレキギター)の違いついてやっていたのですが

「和楽器は楽器に手を合わせる」「エレキギターなどは自分の手に合わせて細くしたりする」とありました。

東洋的な考えと、西洋的な考えと非常に分かりやすくですね。

楽器に関してはどちらが、いいかわかりませんが、狭い日本では調和を重んじます。

そもそも、日本の起こりが「和を持って尊しとなす」でありますから。

ですから、空を悟り、縁起の法則を学ぶことが大切になるのですね。

ということは、仏教というのは、この様々な縁の集結で出来た日本で生きていく為の

マナーなのかもしれません。

もちろん、縁も依存すれば、溺れることも有りますが、仏心が宿っていれば

偏った価値観に依存しにくくなることでしょう。

「あるがままに」状況を謙虚に受け入れて、まず合わしてみましょう。

そして、そこで自分が何をすべきか?そして何が出来るか?そして何がしたいか?

「和」は狭い国土で、心穏やかに人々が生きていく為に編み出された、先人の智慧なのです。

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