水屋と蘇鉄の間にツワブキのひとりばえが。
ツワブキは開花してから、二ヶ月ぐらい経つと、たんぽぽ種みたいに綿みたいな
白い種をつけて風に乗って運ばれて、行くそうです。
また、ツワブキは日陰でも育つので、こうして水屋と蘇鉄の大木の影でも
花を咲かせることができるのですね。
見かけによらず、強い生命力を持っています。
さて、みなさんもご存知でしょうが、密教は弘法大師様が唐に渡り、青龍寺の恵果阿闍梨より
弘法様に授けられ、その法灯が日本に正式に持ち帰られ、今日に至ります。
密教では、「師資相承」と言って、教えは師から弟子へ、つまり心から心へと
水差しの水を移し替えるが如く、受け継がれていくのです。
これは、文字などの書面だけで受け継いで行くのではなく、実際に体感して
受け継がれていくということです。
今、グーグルで調べたら、殆どの知識は得られます。
しかし、その師や親などからは言葉や文字で表せれない「何か」は、感じる事は
できません。
…お墓参りをされる方の理由の大半は、私が思うにですが、「親がやっていたから」
というものが非常に多いように思います。
前もお話させて頂いたと思いますが、このお墓参りは仏教で言う「相互供養」という
要素が隠されていて、お墓の前で、ご先祖様や亡き家族を想い、手を合わせることで
実は、同時に自分自身も供養しているということになるのです。
つまり、自分も温かい供養を受けられるので、人を思いやれる人になり
優しい行いや言葉をかけられるのです。
ですが、今お墓参りをされている方で、そんな事を思って行っている人は殆どおられないでしょう。
そして、「このお墓参りにはそういった功徳があるんだ」と言って意味を理解しても
それが必ずしも、お墓参りの動機付けになるということでは、無いのです。
どうしてか?
それはお墓参りをしている、親や家族の姿を見ていないからであります。
「家族でお参りする」という行為から感じられる言葉では説明できない、温かい気持ち
それが心のどこかにあって、それが自身が大人になった際に、「芽生え」
理屈で動くのではなく、自然に自身を墓参りにと動かすと思うのです。
非常に大雑把な説明かもしれませんが、密教の伝承とはこういうものだと思うのです。
ですから、文字などの書面で本当の「密教」は受け継がれるのは難しいのです。
ですから、弘法様は最澄様に理趣経の経本を貸してほしいと頼まれても
断られたのです。
先程も申しましたように、密教は、文字だけで伝承するものではないのですからです。
…ですから、人は「したことがされる」のです。
人に冷たくしたら、冷たくされ、嫌えば嫌われる。
人に温かく接していたら、人から親切にされ、人を好きになれば、好かれるのです。
認めたら認められる、挨拶もしたらされるのです。
つまり、反対に言えば人に「されたいことをする」「されたくないことはしない」
ということでしょう。
どれもこれも、自分の体験から得られるものばかりであります。
…今情報社会で、どんな情報も瞬時に共有できますが
その写真や文字や動画からでは味わえない体験があることを忘れてはなりませんね。