畑の間引いた大根を刻み、新米にまぶし菜飯にしました。
新米がツヤツヤして、刻み大根の塩気が米の甘さを引き立たせてます。
とても美味しいです。
一般的に、何か新しく始める人のことを「新米」と言いますが
いつまでも、新米の様に輝く初心を忘れないようにしたいですね。
…「初心忘れるべからず」という有名な言葉がありますが、調べましたところ
この言葉を最初に使ったのは室町初期の能楽師、世阿弥だといわれています。
一般的に「初心を忘れるべからず」とは、新米の駆け出しの頃を思い出すという意味で
使われていますが、この世阿弥が使われた「初心」は実は三段階あるそうです。
まず、「是非初心を忘るべからず」と言いこれは今一般的に使われている
最初の芸も技も未熟な頃の時を忘れないようにという意味です。
これを忘れないでいれば、上達した時に、その成長を確かめる事ができるからです。
次に、「時々の初心を忘るべからず」とあります。
これは、その年盛りから老後に至るまで、その年相応で学んだそれぞれの初めての時を忘れないように
して、その段階段階の成長を確認することが大切だということです。
そして、最後に「老後の初心を忘るべからず」とあります。
年老いてからのふさわしい役があるので、それを学ぶ最初の境地を忘れないようにすることが
大切であるということです。
つまり、その段階段階の初心を忘れずにいれば、新米の様な輝きを保つことができ
芸も磨かれ上達するということです。
…「初心を忘れるべからず」と言うと、ものすごく前に戻る、という意味で捉えてしまうと
あまり現実感がわかないというか、「またそこか…」マンネリが引き起こされてしまうのでしょう。
つまり、前に進みづらいということですね。
…密教の戒律に「四重禁戒」というルールがあります。
➀不応捨正法戒(正法(密教)を捨ててはならない)
➁不捨離菩提戒(菩提心を捨ててはならない)
➂不応慳悋正法戒(正法を伝えることを惜しんではならない)
➃不応不利衆生行戒(衆生に不利益な行いをしてはならない)
戒というとガチガチに締め付けられるというイメージを持たれている方も
居られるかもしれませんが、これは真言行者が前に進む為の戒律です。
真言宗の教えは言わずとも仏になることであります。
その為には修行をしなければなりません。
ですが、その修行も、ただ単調に同じことを繰り返して行うのでなく
探究心を持ち、そして、時代をも鑑み自身の修行を磨いていかなければならない
ということです。
続けていくことだけでも大切ですが、更に改良して磨いていく事が大切ということですね。
そして、自利行だけでなく、利他行も忘れてはいけないということですね。
自利行(自分が悟りを求める行)をいくら行っても、利他的な心が薄れては
自己満足になってしまいますからね。
世阿弥の言葉を借りれば、「花は観手に咲く」様に、それを観る第三者が
それが花(悟り)かどうかを判断するのです。
つまり、自身の修行を時代とともにアップロードして改良し
その時代時代の初心を忘れずに、新米のような輝きを保ち
そして時代に取り残されることなく、前に進み
多くの人の役立っていくことが大切であるということです。
密教は相反する価値観を、矛盾のままに合わすことができ、前に進むことができるのです。
弘法様の教えを中興の祖の興教様は色々と時代に合わせ真言宗の教えをアップロードしました。
もちろん、自身の厳しい修行も忘れずにです。
その当時、真言宗の教えはこういうものだと、ガチガチと固めていたら
真言宗はどうなっていたでしょう?
恐らく、これだけの真言寺院は残ってはいなかったと思われます。
…「初心に帰る」とは大切なことですが、何もすべての最初に帰るではなく
帰るべく段階が有るということではないでしょうか?
それまで積み上げてきたことを、壊して否定することよりも
視点を変えて、そうした矛盾をも前に運ぶ、密教の力が必要になるのです。
何故なら、時間は有限であるという、現実的な問題があるのです。