住職の日記

裏も見よう

ハナミズキの葉がりんごのように紅葉しだしました。

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モミジも赤くなってきました。

それにしても一気に寒くなりましたね。

それもそのはず、今日から11月です。

今年も残すところ二ヶ月です。

年内にやれることはしっかりと年内にやりましょうね。

さて、一気に冷えてきましたので、これからいよいよ紅葉シーズンですね。

紅色や黄色に染まった、山々の景色はまさに絶景ですね。

本当に楽しみです。

…ですが、前もお話させて頂いたように、紅葉は言わば葉の「老化」であり

つまり、「死」に向かっていくのです。

こうした紅葉は、美しさの反面この世の無常を説いているのです。

「裏をみせ表をみせて散る紅葉」これは江戸の後期に活躍された

禅僧であり詩人でもある良寛が思いを寄せる貞心尼という尼僧との晩年の歌のやり取りの

中の句であります。

ひらひらと表と裏を見せて落ちていく紅葉の葉を

自分に例え、自分が思いを寄せる貞心尼に裏も表も見せてきたという意味でしょう。

光があれば影があるように、自分を含めどんな存在にも、善と悪があります。

ですから、都合の良いところだけ見たかったり、得ようとする生き方は

真理に反していると思うのです。

何故人は苦しむのか?それは「苦」があると受け入れられないからです。

確かに、苦なんて嫌ですが、この世は無常であり、生老病死の苦が付きまとう

定めなのです。

そして、誰もが知らず知らずのうちに悪いことをしているのです。

我々が生きているということは、何かの命を奪い去っているのです。

生きるということは、汚れていくことなのです。

ですが、それを避けていては、成長は無いですし、この資本主義社会では生きていけません。

ましてや、これが時代が違えば、殺らなければ、殺られる様な状況だったかもしれません。

ですから、人は悪い行いをせざるを得ない定めでも有るのです。

そこで大切なのが、自分は悪いと懴悔し、素直に認めることです。

同じ行いでも、懺悔し、反省した上でするのと、しないのとでは、行動がもたらす意味が

違ってきます。

食べ物でも、これは「食べてもいい」「食べてはいけない」とご都合によって

差別している人はいますが、原則、食べてもいい、つまり命を奪っていい物など存在していないのです。

でも、我々は食べなければ、つまり何かの命を奪わなければ、生きていかなければいけませんの

命を頂くのです。

ですから、「これは食べてもいいんだ」と差別すれば、言い換えれば、「どんな扱いしてもいいんだ」と

どんどん扱いが雑になり、命を尊ぶことが無くなります。

そして、その影響は違うところにも及び、世の中には「良いもの」と「悪いもの」がいるのだと

安易な二元論で、物事を観ることになります。

もちろん、好き・嫌いはありますが、それが=善と悪ではないのです。

葉っぱの表しか見えないと、こうしたことになるのです。

ですから、基本ダメなんだと定義があれば、最小限の摂取に留まる可能性があるのです。

または、行いが止まる可能性も見込めるのです。

ですが、「これはやっていい」と認めてしまえば、最小限に抑えることも、ましてや

止まる事なんてありえません。エスカレートはされますが。

「本当はダメなんだ」と思いながらの行動は当然ストレスがかかります。

ですから、生きるは「苦」なのです。

そこで、懺悔することで、そのストレスを緩和することができるのです。

御仏の前で、自身の悪業を隠さず吐露して、そしてその償いとして

利他の行いをすると誓うのです。

本来、我々の生きる原動力の根底になければいけないのは

「償い」でなければならないのです。

ですが、その罪を微塵も感じず、最後には自分こそが正しいと自我が肥大し

自分のしたいことを探して、そして最後には自分を探して、貴重な時間を消費する。

いつ満たされるのでしょう。

我々は「誰かの為にしか生きられない」と言いますが、もう少し掘り下げると、

自分の犠牲になった命の償いのために、利他の行いをすることでしょう。

実は、誰かの為に生きる前に、糧となった命への贖罪に生きる義務が有るのです。

これが本当の人の「生きる力」です。

良寛様の句にはこうした表と裏を都合よく取っては真実には辿りつけない

と込められているように思うのです。

ひらひらと舞う、葉を見て、見たくないかもしれませんが

裏を見て、本当の生きる力を湧き上がりましょう。

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