TOPは舟になれ
花が散り、新芽が芽吹いてすっかり葉桜に。
今日は久々の晴天に恵まれ、とても過ごしやすい一日となりました。
さて、なんの組織にも長というものがありますが。
そうした人の、一番のあるべき姿は何だろう?と考えた時に
一般的にトップと言うと威厳を放ち人を従わせるというイメージがある人もいますが
それが正しい姿なのでしょうか。
今日は昨日に続き、ジャータカ(お釈迦様の前世において菩薩修行していた時の物語)の中の
ある話をさせていただきます。
昔、ヒマラヤの麓に猿の群れが住んでいました。
その頃ガンジス川の辺りに、美味しいマンゴーがなっていて、その猿の群れのボス猿が
猿にそのマンゴーを食べさすために、マンゴーのなっている木まで連れて行きました。
そこで皆が美味しくマンゴーを食べだすと、ボス猿が「マンゴーを川に落としてはダメです、
川下の人間に知られるいけないので」と注意を促しました。
しかし、あまりの美味しさに夢中になり、ある猿が一つマンゴーを落としてしまったのです。
そのマンゴーが川を流れ、人の住む場所に流れてしまい、
人間にそのマンゴーの存在を気づかれてしまったのです。
そのマンゴーをその国の王に献上したところ、その美味しさに感銘を受け
家来とともに川を渡ってきて、マンゴーの木に群がっている猿の集団を弓で攻撃しだしたのです。
そこで、ボス猿が屋の届かない向岸にある茂みがにサルたちを避難させるために
自分がまず、向岸に渡り、長い竹を持ってきて自身の腰に縛り付け、マンゴーの木と
向岸の一番狭い場所に自身の大きな背中を橋として、猿たちを渡らしたのです。
そこで、すべての猿が渡り切る頃には、矢や猿が高いところから飛び降りてきた際に
受けた負荷によりボス猿の体はボロボロになったのです。
その様子を見て、マンゴーを取りに来た王が攻撃をやめさせ、その猿を下ろし、その理由を質すと
「私はこの猿の群れの王です、この猿たちが幸せになるために務めるのだ」と最後に絞り出す様に
言葉を残し息絶えたのです。
そのボス猿の姿に、王様が感動し、諸々の王様と同じように盛大に葬式をあげ供養したのです。
実は、このボス猿はお釈迦様の前世なのです。
仏はどんな存在かと一言で言うと、「大慈悲」の持ち主なのです。
「大」とはこのすべての世界をさし、好きとか嫌いとか、恨み憎しみをすべて超越し
すべての人に慈しみの光を照らすお方なのです。
つまり、自分の事は置いといてすべて人の為に尽くすのです。
我々は、御仏のあまりの謙虚な姿に、目に捉えられないだけで、誰もが御仏に無条件に
慈しみの光を照らされているのです。
我々は、知識や実績を積んでいくと、自分は優れている、偉いと思い込んで、ふんぞり返ったり
権力を持って人に従わせたりと、利他的な心が失われる事があります。
しかし、上に立つ人なら人ほど、他を活かす慈しみの光を宿さなければならないのです。
そうしたことの出来ないトップは携わる人の個性を摘み取り、つまり命を無慈悲に積む
殺生をしていると同じなのです。
個性は大切ですが、トップであるなら、自身の個性を少し覆い、徹底的に他の個性を引き出し
皆を幸せの岸まで運ぶ船となりましょう。
その船の大きさは、器の大きさでしょうね。