それぞれの道を歩めば良いのです
春になり芝も明るくなりました。
こうした新しい葉が芽吹き景色が明るくなってくると次第に心まで明るくなってきますね。
それも、仏様の慈しみの光のお陰であります。
すべての命を無条件に認めてくれて、全てに光を注いでくださるので
我々はこうして活き活きと生きていられるのです。
ですが、我々は自分への執着から生まれるこだわりや蔓延している常識というものに
相手や自身を当てはめようとして、自らその光を遮断しようとするのです。
もちろん自分で雲作って遮断しているだけで、その引きこもっている間にも
仏の光は照らし続けられていますが。
ただ、自分だけならまだしも、相手までその常識に当てはめようとすれば当然争い事が起き
穏やかになるはずがありません。
相手の道を止めようとする権利なんて我々には無いのです。
「あぁそうなんだ」とそれぞれが光の差す方にただ進んでいけば良いのです。
森に入り木々を見てみると、それぞれの命がただ光の差す方に、地下では水がある方へ広がっていて
影響しながらも交わりながら、共存共栄しているのです。
それは、我々人間も同じで、先月行った大都市東京もそうした光景がありました。→その記事
やすい挑発にのれば、それと同等なのです。
自分が信じる道は、そんなもんだ、またはまだまだということなのです。
何故なら、仏様は恨みとか憎しみを超越し、相手がどうであろうと方便そのものが
目的なのです。
つまり、とても目にかけてくれてはいるのですが、違う意味で眼中に無いのです。
もちろん、自分の子が自分みたいに仏になって欲しいという願いはあるでしょうがね。
まぁ、期待に答える答えないは我々次第ですが。
よって、我々は何かの道に進む際に、その方法が違うからっと行って否定したり、
争うことをしたら「その道」を進んでいるつもりでも、外れている事になるのです。
「それだったら、その道を目指さない方が良いんでないの?」ということになりかねません。
要は、人のことを気にせず、黙って自身の道を邁進すれば良いのです。
もちろん、「これいいな」と言うものはどんどん取り入れ、影響しながらです。
自身の持つ正論はそれぞれが持っていて、それを統一することは愚かなことなのです。
そうではなく、いろんな人がこの世界には居られるのだ、という事を自覚しなければなりません。
自分も他人から見たら違うのです。
ですから、自他共に無闇矢鱈に否定をし、そんな殺生を繰り返しても、地獄を生むだけなのです。
そういう人に限って口々に「幸せになりたい」と言うのでしょうが。
どんなに、まわりの人が認めてくれなくても、最低でも仏様はいつでも見ていてくれるのです。
こんな偉い方がすでに認めてくれるなんて、すでに幸せではないですか。
ですから、いちいち何かを否定している暇があるなら、道を歩むべきなのです。