住職の日記

誰にも捕まえる事が出来ない

誰にも捕まえる事が出来ない

四季桜が可憐に咲いてます。

ピークは過ぎましたが、これから来る真冬の季節、寒風が吹いても、雪が降っても、順番に咲いてくれます。

こうした花を見ていると「咲く」つまり花にとっては「生きる」事を、どうして、ここまで究竟とする事が出来るのか

本当に感心させられます。

それに比べ、我々人間と来たら「自分」の都合によって、やったりやらなかったりしますよね。

この違いは何だろうと思うと、やっぱり「自分」と言うありもしない存在への執着ですね。

その自分という仮の姿があるからこそ、ちょっと何かあると苦しみが生まれて、

「気分を害しました」「気分が乗らない」となり、自分がすべきことを止めてしまうのです。

方便を究竟に出来ないから、心に隙が生まれ、くだらない事を考え、時間は過ぎて行くのです。

では、何故我々は惰眠を貪るのかと言うと、覚悟が足りないからでしょう。

覚悟とは命にリミットがあるという自覚です。

花が美しいのは、散っていくからであり、その儚い命を懸命に燃やすから、この空の世界に

美しい花が創造されるのです。

花は自分の短い余命を知っているのでしょう。

その自覚があるから、くだらない事に囚われず、自分のすべきことを究竟と出来るのです。

「花は気の毒ねぇ」と思いになられるかと思いますが、花に比べればうんと長いでしょうが

我々人間も同じです。

この自覚が希薄になればなるほど、自分と言う存在が固く確立されるのです。

そうすると、自分の気分と言う物が邪魔をしますから、「もうやめた」となるのです。

方便を止める理由の多くは、実は周りの環境ではなく、自分自身に在るのです。

「あいつが邪魔だ」と言うのはある意味言い訳で、一番邪魔なのは自分への執着なのです。

「一番の敵は自分」とはよく言ったものです。

方便を究竟とすれば、自分なんてと言う物にも構ってはいられませんから、自分と言う存在が

微細に砕かれて行き、周りのくだらないヤジや中傷に囚われず

その反対に称賛の声を受けても変に満足せず

道を突き進んで行けるのです。

そして、この世で一番恐ろしい無常の鬼も、その方便を究竟とする者を捕まえる事は出来ません。

その境地は、確かに肉体は目に見えますが、既に虚空に舞っているので、生死すら及ばないのです。

愚者は常に人の事ばかり気にして、誹謗中傷をし、くだらない談議に花を咲かせます。

同じ花を咲かすなら、どちらがよろしいですか?

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