住職の日記

若い頃の苦労は…

若い頃の苦労は…

出穂前の稲。

まだ穂は実っていません青々として元気です。

穂がつくまで、謙虚にいろんなものを吸収して大きくなるのですね。

「謙虚は慢心の始まり」と私の先輩が仰られていたことがあったのですが

我々は「私には無理だから」とか「いえいえ自分には出来ません」と謙虚に振る舞うことがありますが

「自分の出来が悪いことを知っている腰の低い自分はすごい」と実は知らず知らずのうちに慢心しているのです。

これを仏教では「卑下慢」と言います。

真の謙虚とは、どんなことも受け入れる心であることですね。

その為には無我であるという「自覚」が必要になるのです。

自覚と言っても「縁の世界の中に連なっている自分」であります。

この自覚がなければ、または間違った自覚をすれば、知らずのうちに傲慢になりますね。

…そう思うと今の若い世代の特に子どもたちは、昔と得られる違い情報の量が格段に違いますね。

となると、「どうせこんなもんだろ」「わかった」と誤った自覚をして「自分はすごい」と慢心し

行動に移さない可能性も大いにありますよね。

ただ、知識やお金が増えれば必ずしも幸せに比例しているわけではないですよね。

やっぱり、人の器を広げるには若かりし頃に多くの実体験を積むことだと思います。

そんな重要な時代に、狭い世界に押し込めて、確固たる自分を想像するなんて

無駄では無いですが、邪魔になりますよね?

つまり、成長が限られてしまうということですね。

仏教も頭で理解したとしても、それは本当の理解ではないのです。

自らが出来る布施の行をして、初めて仏の教えに触れたことになるのです。

今日本に出回っているスマートフォンの殆どはiPhoneだと言われていますが

その産みの親であるジョブスはそれらのものを自分の子供に使わせなかったのは有名な話です。

まだ善悪の分別が出来ない子供に、スマホを持たせて情報を与えても

正しい答えを出せるとは思えません。

また、ネットは好きなこと、好きな人と繋がり安いので、キャパは狭まるのは目に見えてますね。

昔学校の先生が単語を電子辞書で調べている生徒を見て、「辞書を使え」と言っていたのを思い出しました。

生徒が理由を尋ねると「辞書なら、探している間にスペルを覚える」「簡単な物に頼るな」とそんなようなことを

仰られて居ました。

ただ、生徒は「早いから良いじゃん」とボソッとつぶやいていたように思いましたが

確かに、その勉強は合理性はあります。

すぐに分からない事が分かるのですから。

しかし、何でも簡単に済まそうと言う意識になっていくのかもしれませんね。

人は基本的に便利なもの簡単なものに流れますので。

学問だけを伸ばすための教育なら、そうした合理性は必要ですが

「苦を乗り越える力」は身につかないでしょう。

今の日本の教育は暗記させているだけだと言う人が居ますが、「暗記」をさせて脳を活性化

させることはその後の人生において大切だと思うのです。

社会人になれば、「そんな面倒くさいものをするな!」と便利な電子機器を使わざるを得ないでしょうが

学生時代くらいだと思うのです、将来役に立たない様な勉強が出来るのは。

無駄な勉強をさせるよりも実用的な勉強をさせたほうが良いというのも一理有りですが

好きなことでも無駄なことでも一生懸命取り組んで行くことにこそ、本当の功徳があるのでしょうね。

まぁこれからの教育がどうなるかわかりませんが

「若い頃」の過ごし方によって将来の器が決まるのは間違いないのです。

一つしか穂が実らない稲にするのも、たくさんの穂がなる稲にするのも、その時期なのです。

そして、たくさん穂がついた稲ほど、垂れ下がっているのです。

真の謙虚ってこういうことでしょうね。

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