住職の日記

常にと心がけたいのは…

「常に」と心がけたいのは…

玄関のつばめが大きくなりました。

もうすぐ出立の時でしょうか?

さて、「常に」ってありますけど、「常に」笑うことも、常に嬉しがる事も、変ですし

常に悲しむ事も難しいでしょう。

何故なら、この世は無常で「常に」どんぶらこ、どんぶらこと状況が変化しているので、例えば

大切な人が亡くなった際に「僕は常にハッピーです」と笑顔でいたら、ちょっと変ですよね?

そんな具合に「常に」喜ぶとか、悲しむは難しいです。

仮に無理に押し通しても、ストレスがたまりどこからか壊れていきます。

しかし、我々が「常に」と心がけたいことがあります。

それは常に「感謝の心」、つまり「懺悔の心」を持つことです。

これが、あるのと無いのとでは、大きな違いが生まれます。

常に「感謝の心」があれば、幸せを感じやすく心が穏やかであります。

そして、何より周りの人が嬉しいですね。

しかし、反対にこうした懺悔の心がなければ、満たされず「常に不満」を感じイライラすることになります。

先ほど申しましたように、常に悲しむことも、嬉しく思うことも無理ですが

常に「不満を感じる」事はこれは残念ながら出来るのです。

そういう人はどこに行っても何しても「常に不満」を言います。

そうした方がそう思うのは「自分が生きている」「自分がやっている」と

「自分が有る」という先入観によって不満が生まれるのです。

つまり、自分の「好き」「嫌い」だけで世界を分別するので、それで嫌いの部分に入れば

排他的になるので、周りはたまりません。

そして享受できる幸せも当然減ります。

しかし、本来そんなことはありえません。

我々はこの間申しましたように縁起の法則に従って我々の存在は成り立っているのです。

つまり、縁の中でしか生きていけない、生かされているのです。

その事実をまずは潔く認めなければなりません。

そうすれば、自然に感謝(懺悔)の心が生まれるのは至極当然の話ですね?

「何を当たり前のことを」と思われるかも知れませんが、その当たり前の事が物凄く難しいのです。

我々人間は忘れやすい生き物であるのです。

「昨日の夕飯何召し上がれましたか?」

そんな具合です。

従って、その縁の中からでしか生きられない事実を忘れない為にも

仏法に帰依をして、心を洗浄しておかなければなりません。

仏法は自浄作用がある薬のようなものなのです。

「○○すべき」「○○だ」という意見を持つ事も大切ですが、あくまでも自分という存在は本来

は無いという前提が抜けてしまうと、穏やかではありません。

虚空の世界で身を置く我々はその虚無感に押しつぶされそうになりますが

その中で真実が見つけられるのもまた事実であります。

その道を志す上で、自分がその状況によって色々取捨選択をしなければなりません。

そうした、こうありたいという選択をしなかったものを捨てる事になるのです。

つまり、好き嫌いはあるけど、それによって善とか悪、優劣の差別は無いのです。

従って、「あいつはいかん」「これはいかん」と批判をすることはナンセンスなのです。

自然に入るとそれぞれの命が、混ざりながらそれぞれの命を全うしています。

忘れてはいけないのは、我々も自然の一部で有るということなのです。

自分の目指す道がどんな道でも、そこに気に食わない、好き嫌いはあっても

善悪、優劣を決めつけたり、他を排除することだけはタブーなのです。

その為には仏法に触れこの世は自分ももちろん含めて善悪存在するのだと真理を学び

他を許せるように「常に」謙虚にいたいですね。

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