住職の日記

自分の好きなことを…

自分が好きなことを…

カンザキアヤメの葉に雨の雫が乗って綺麗です。

葉に埋もれながら咲く花も奥ゆかしく、いいものです。

カンザキアヤメの花の様な、自己主張は争いごとが起きにくいかもしれませんね。

さて、仏教には「因縁果」という言葉があり、物事の起こりが「因」です。

それに「縁」が和合して「果」が生まれるのです。

これをよくよく自覚して置かなければ、豊かにそして穏やかに生きていけません。

そして、この因なんですが、見方を変えたら「〇〇したい」という欲望とも取れます。

仏教では欲望は完全には否定しませんが、その取り扱いには気をつけなければなりません。

つまりこの「因」がどこに根を下ろしているのかということが大切なのです。

もし、これが「何かを得る」など見返りを求める事が目的だったら、恐らく続いていかないでしょう。

もちろんこれが悪いこととか善いということではありません。

何故ならその目的が果たせたり、見返りが求められなくなったら、もうその「方便」はその人に

とって価値がなくなるからです。

もちろんその途中でその楽しさに気づけたら、続いていくかもしれませんがそうでなければ

どうしたって続いていきません。

くどいようですが、これが良いとか悪いではありません。

その時々の状況で、すべき事、したい事、できる事は違うので、その時その時の最善手は

違います。

しかし、何かを長く続けていくというのであれば、因が何か得るためという欲望に根を下ろしていると

道はいずれ途絶えて行きます。

しかし、これが仏様の「慈悲心」の様に見返りを求めないものに根を下ろしているのであれば、継続は出来ます。

何故なら、見返りがあろうが無かろうが、その行動そのものが目的なので、行動することで目的は

果たされているので、道は続いていくのです。

しかし、現実には我々は自分の行動に対しての見返りを得られないと我々は生きていけません

ですが、それだけでも豊かに生きていくこともまた難しいのです。

従って、自分の「無条件に出来る事」つまり「好きな事」を取り入れる事が大切になっていくのです。

それが自分の仕事に取り入れれば尚の事良いです。

「好き」は無意識のうちに続いていきます。

どんなに良いとされる行いでも、それが本人が好きではなく、価値を見出さなければ無理して行うことはないのです。

もちろん、この好きが「他の人が喜んでくれる事」であったら尚の事人から支持されるでしょう。

但し器が大きくなければなりませんが…。

そうそう大器を持った人はいません。

従って自分の好きなことを取り入れる事が、大切になるのです。

それは「自利」とも取れるでしょうが、その行いがどれ程の範囲かわかりませんが

それに共感してくれる人もいる「かも」しれません。

従ってその時に、「自利」が「利他」にもなるのです。

しかし、いきなり自利から入れる人は、余程経済的に余裕がなければなれません。

またその行いに、地域にどれだけ共感してくれる人がいるのか?

いたとしても、どの様に伝えていくのか?

それまでの生活はどうするのか?などと現実問題が嫌でもちらつきます。

従って殆どの場合「利他」から入ることになるのでしょう。

そして余裕が出てきたら、自利も混ぜて継続させていく。

そうすれば、自他共にWINWINな関係になります。

嫌々やっていると、生きているだけで苦痛になります。

いくらこの世は苦に満ちていると言っても、苦は苦です。

それを超える大きな目的がなければ耐えられません。

例えば本屋さんが2つあって、一つは本を陳列しているだけの店、品揃えは普通。

綺麗に陳列されているけど、すべて紐で縛られて本が見れない。

店主は別にその仕事は好きではなく、継承したとかたまたまその地位についたという感じ。

もう一つは、雑貨や古着が好きな店主で、本屋なんですが、そういった店長が好きな物を

並べてあって、個性的な本屋です。

しかも、にこにこ楽しそうに楽しんでいる。

どちらが長く継続出来るでしょうか。

おそらく、後者で無いでしょうか?

無条件に「好き」を取り入れる事によって、継続は出来ます。

しかし、それだけでは難しいから、利他の行も平行して行う。

互いにハッピーですよね。

真言宗のお仏壇には大日如来が祀られています。

言うまでもなく、我々が目指す「べき」姿です。

身を粉にして、世の中の遍満し他の為に「利他行」を行う事が理想であります。

しかし、現実にそれだけの決意や人に役に立つような能力を持つことは困難な事も事実ですし

利他の為にだけに生きていくこともまた難しい事で有るのです。

そこで、そのことを受け止めて、自分の好きなことを混ぜて、利他行を継続させていくことが大切なのです。

完全な利他行でなくても、その姿もまた、大日如来なのです。

いちばん上に戻る