住職の日記

得る物は本来ない

得る物は本来ない

穂が大きくなってきました。

大きくなるほど垂れ下がります。

さて、「無所得」という言葉がありますが、これは収入がないという意味ですが

仏教では空の真理を理解して、何事にも囚われない事を言います。

我々は何かを得る為に頑張ると言いますが、それはこの世の真理から少し背いている事になるのです。

何故なら、この世は空で実体がないのです。

物もお金も地位もそれは存在しないのです。それは悟りもです。

それらに執着し、他の事にも目もくれず、ひどい時は否定して、言い争いになりながらも、その道にまっしぐら。

本当にその先に幸せが待っているのでしょうか?

目標は大切でありますが、それが全てではなく、むしろ「過程」に「今」に大切な事があるのではないでしょうか?

したがって、この世は空で得る物は無く、無所得の心を持って今を生きる事が大切になります。

この世で本来生きる事以外の目的はありません。

ですから、今を穏やかに生きる事こそが最高の幸福と言ってもいいでしょう。

「悟りを得なければ!」「いい学校に行かなくては!」「お金をたくさん設けなくては!」と目的をもって

努力を続ける事は、見返りの心が働いているので「苦」が生まれ、今に影を落としますので不幸の時間が増えてしまいます。

それでは貴重な有限の時間が勿体ないですよね?

別に努力するなという事ではありません、しかし今はダメで未来に光り輝く世界があると

思い込んでいることが大変勿体ないのです。

そうではなく、我々は既に幸せなんだと感じながら、努力したっていいじゃないですか?

自分は今はダメだ、不幸だと思っているかもしれませんが、その世界で穏やかに幸せな時間を過ごしている人も

いる事を念頭に置いておかなければなりません。

自分の理想を実現させるために、そうした人の穏やかな時間を奪う権利は何人にもありません。

また、今を否定し続けると、それが癖になり、その光り輝く未来にたどり着いたとしても、また理想の世界が遠くに出来

いつまでも心が穏やかになることはなりません。

自然はそれぞれの命を懸命に全うし、互いに尽くしあっています。

悟りがどうとか、何かを得ようとか、そんなことは微塵に思っていないでしょう。

ただ懸命に与えられた命を燃やしているのです。

それは、我々もそうでなくてはいけません。

その為には、空だと自覚し、無所得の心を忘れず、今を穏やかに生きる事こそが最高の幸福であり

その姿こそ即身成仏であり、我々が目指す仏の世界なのです。

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