住職の日記

小さくなったなぁ。

柿約二個分の大きさですが、これれっきとしたパソコンです。

Windowsも小さくなりましたねぇ。

片手でパソコンを持てる時代がこようとは…。

何か今の時代を象徴しているようです。

…何回もお話させていただいたことがありますが、真言宗の中高の祖

興教大師覚鑁上人は、「背負った人」だと言えます。

背負ったというのは、「弘法様の教え」をです。

興教様が活躍された、平安末期はちょうど貴族の時代から、武士の時代の変わり目で

国内は殺伐としていて、尚、自然災害、基金などが続き人々は大変苦しんでいました。

そんな中、密教の目標である即身成仏を達成する為には三密(行動と言葉と心)を整える事が

条件でしたが、その当時の人々の心にはその教えはあまりにも難易度が高すぎて

受け入れられなかったのです。

しかし、そんな中広まったのが浄土教(死後極楽浄土に往き生まれる教え)です。

人々は、現世での成仏を断念して、一新に念仏にすがりました。

ただ、仏教は本来今生での成仏が目標であるのですが、その時代を考察すれば

それが自然というものでしょう。

興教様はそんな人々の心情を組み、「一密成仏」という教えを打ち立てます。

一密とは先ほどの三密のどれか一つさえ、整えれば、残りの2つは

自然に後から整っていくものとして、人々を仏道に寄り添う安くしたのです。

つまり、弘法様の教えを守るために、大切な部分を残し、展開させたのです。

ただ、この方針には旧来の真言宗体制からの批判も確かにありましたが

これがなければ、今これだけの真言寺院は存在し得なかったと思うのです。

伝統を守るというと、変えない、そのままにする、と思われがちですが

それでは、この無常の世ではたいへん危険極まりない行為であるのです。

ですから、興教さまは弘法様の教えを背負って次世代へ運ばれたのです。

…しかし、一方では「大師へ帰れ」というスローガンの下、真言宗の原点である

弘法様の教えに立ち返り、真言宗の根本である「行」も多く実践なされました。

この、上求菩提(修行)下化衆生(人々の救済)の両立を見事なされたのです。

…無常の世において、変化は大切ですが、残していく部分と展開していく部分とを

見極め、背負ってこの無常の世を渡りたいですよね。

伝統を捨てて時代のながれにそっても同質化してしまい、新しいことを拒否しても孤立して

しまい、うまくいきませんよね。

この約柿二個分の大きさになったWindowsを見て、そんなことを思った次第であります。

それにしても小さくなったなぁ。

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