住職の日記

伝え方はそれぞれですが…

伝え方はそれぞれですが…

オガタマの甘い、いい匂いが漂います。

バナナの香りに似たような匂いです。

さて、様々な木々に花が付いて、春を彩り我々の視覚を楽しませてくれる中

オガタマはこうした我々の嗅覚を楽しませてくれます。

伝え方はそれぞれで良いのです。

それが、個性であり、その集合体が豊かな仏の世界であります。

我々はあの人みたいになりたいなぁと人に憧れを持ちます。

もちろん、色々刺激を受け、自身の中の潜在的能力を引き立たせる事もいいです。

しかし、「あの人と比べてダメだ」と比較しだすと、自身の特性を見失ったり

逆に、自分が一番正しいと思い込み、相互依存の世を忘れだし他を強制しだしたりして

それによって争いごとが起きてしまうのです。

比較によって何かを否定することは、無慈悲に命を摘む行為で

仏教の中で「殺生」という一番悪い行為にあたります。

そうではなく、どんな状態でもそれぞれに良さがあり、その個性を妨げる事は自他ともにも許されないのです。

従って、互いの良さを認め慈しみましょう……と言いたいところですが

その理論だけでは通らないのも事実であります。

我々の住む世界は資本主義の世界でもあり、半分は「それはどんな価値があるのですか?」

と言う視線も避けては通れないのです。

すべてを慈しむと言うことは大切ですが、それはその人の器、状況にもよりけりで

時と場合によっては、何かを決断しなければならないのです。

すべてを絶対肯定してくれる人は、余程余裕があるか、危機感がないかであり

資本主義の世界ではかなり少ないでしょう。

まぁ、仏様はどんなときも絶対見方をしてくれますでしょうが、我々人はそうはいきません。

従って「自分は〇〇が好きです」「〇〇が得意です」などと「わかりやすく」しなければ

目にも止まりません。

それくらい厳しいのです。

ただ、安心すべきは我々はどんな時も仏様の光があたっているのです。

しかし、我々は仏様の慈しみの光を照らされていますが、それは照らされているだけで

後は自身に備わっている種を自分で発芽させなければなりません。

何もしなければ、そのままなのです。

よって、自身の「すべき事」「できる事」「したい事」を混ぜあわせ、

貫いていく事が大切になるのです。

それが個性であり、唯一の存在になるのです。

実際、個性と言うのは大切で、これは比較になってしまいますがおがたまの花って

私の意見ですが他のソメイヨシノやツツジや紫陽花に比べると、お世辞にも綺麗と言えません。

しかし、それらの花はこんな優雅な甘い香りを放ちません。

これが、オガタマの個性であり、これを我々人間に置き換えたら生きる為の手段なのです。

この時期はいろんな花が咲くので、優雅な花に対してこんな言葉を使いたく

ありませんが激戦区であります。

そんな中、他の美しい華やかな花に引けをとらない価値をこのオガタマの花は持っているのです。

我々も、出来ないことに直面して絶望しているくらいなら、オガタマのように謙虚に

自分のできる事を懸命に行い、特性を磨き人のお役に立ちましょう。

厳しい自然界を謙虚に生き抜く、このオガタマを見て思ったことはそんなことです。

いちばん上に戻る