住職の日記

亀が激減した

亀が激減した

亀がこんな砂利の固い場所でも懸命に穴を掘っていました。

写真を撮るために近づいたら、気を悪くしたのか逃げてしまいました。

頑張って繁殖して欲しいです。

切に思います。

何故なら、最近地蔵寺のすぐ横の大草公園の池の亀を誰かが大量に捕獲をしたそうで

激減しだしました。

噂ではネットで売っているそうです。

そういう世の中です。

さて、我々人間はこうした様々な生き物を飼います。

そして、それを命として頂くこともあります。

我々人間は罪深い生き物でもあるのです。

その昔こうした亀は道端の露店で吊るされて売られていたそうです。

それは、どうして釣られて売られていたというと、今のように飼う事が目的ではなく

放生(捕らわれた生き物を解き放つ善行)の為であり、その買った亀を近くの池や川に放流して

命を救い、殺生を戒め、功徳を積んでいたと言います。

この放生は日本でも歴史が古く、仏教伝来と共に盛んになったそうです。

お寺の境内に池があることがあるのですが、これを「放生池」ということもあり

今は勝手に放してはいけませんが、昔は捕らえられた生き物を放流していたそうです。

そして、この放生は日本では中々見かけませんが今も台湾やインドでは「亀放し」「鳥放し」とあるそうです。

こうした放生は厳かな儀式としても行われていましたが、一般の私生活にこうして溶け込んでいて

普段から、仏教が一番重んじる戒律の「不殺生」を心に刻んて、自身の内側と向き合っていたのです。

しかし、今は完全に「人」と「動物」と切り離して考えてしまい、もっと言うとこうした動物の命を軽んじて

いるのではないか?

我々人間の存在と小さい虫の命はどちらも命の重さは一緒です。

命に、優劣は存在しないのです。

単に弱肉強食で人間が強く賢いから、こうして虐げているのですが

命は平等であるのです。

従って、我々はそうした命を奪う罪が深い生き物であると、意識を忘れてはいけません。

そうした事を疎かにすると、心の荒廃は進み、生き物を「物」として扱い

終には人の命までポイ捨てです。

もうそうなっているかもしれませんが。

賢くなる前に、強くなる前に、様々な命の施しがあって「自分」という存在が

成り立っている事を自覚することが大切です。

亀を捕獲した人は、お願いですから、このブログを見ていたら(絶対見てないと思うけど)

池に放生して、素晴らしい徳を積んで下さい。

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