住職の日記

一見相反する存在が

一見相反する存在が

境内の木々の葉が落ちて寂しくなっていくにつれて咲き出す十月桜。

こうした、寂しい時期に咲き出す花は非常に有り難いです。

「有り難い」というように、時折参拝者の方が「え?!この時期に桜ですか?」と驚かれていかれます。

10月桜の存在をご存知でない方は「狂い咲き」と勘違いをされる事もあります。

それくらい、この10月桜はインパクトが有ると思うのです。

桜が春咲くのは、ある意味の「普通」のことで、春に桜が咲いてもそこまで驚かれることはありません。

しかし、そんな普通の事が、こうして落葉が始まる初秋の時期に咲く事によって

個性的な尊い価値になり得るのです。

それは「秋」と「桜」という一見相反する存在が、掛合わさる事によって生じたのです。

我々は、本来1つの物が2つに分離して見えて、生活していますが

根本は皆繋がっているのです。

何事も区別は必要ですが、これはこうだからと我々の世界に浸透している常識や道徳によって

自動思考して、これは○○だからダメと、命の芽を摘んでいるかもしれません。

「秋は花や葉が無くなっていき、寂しくなっていく」という状況に

こうしてひっそりと可憐に浮かぶ10月桜の花は、「桜は春咲くものだ」という我々の常識を

超えて、事実こうして存在しているのです。

我々の意識っていうのはそんなものなんですね。

今、物やサービスが本当に我々の生活に行き渡り、飽和状態を迎えたこの社会で

また新たに生み出すためには、この一見相反する「○○」と「○○」とを掛合わすという

不二の思考が大切かもしれませんね。

車もハイブリッドになりつつあり、これから一人の人が2つ以上の仕事を持つことが普通になると

言われています。

飛行機も鳥も翼が2つ無いと飛べません。

この2つのものをそれぞれの個性を活かして一つにするという、事が大切になるのでしょう。

その為には、仏様の様な、何事もこだわりなく本質を見つめる鋭い視線と

それらを受け入れる器の大きさが必要となりますね。

常識や道徳や風習は、常に変わり続けていますので、拠り所とすべきは常に仏法に有るのです。

それらを間違うと、命を無下に摘み取る殺生を犯すことにもなるのです。

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