住職の日記

観手に咲く

観手に咲く

大城冠(ダイジョウカン:椿の一種)が咲き出しました。

今の時期様々な花が開花しだし、様々な色の花で境内が彩られます。

さて、昨日も申しましたが、この世は「空」であり全ては「空っぽ」なのです。

その虚空の世界にこうした美しい花も存在しているのは、我々の認識があるからなのです。

つまり、認識がすべてと言っても過言では無いのです。

見た目に騙されるなといいますが、それだけ如何に認識が大切かの裏返しですね。

そこで大事なのは、「わかりやすく伝える」ということです。

例えば、「私はこういうことしてます」と看板なり名刺なりと書いていただくと

その情報を受け取った人は、わかりやすいですよね?

それで、あぁこの人こういうことが得意なんだぁ。と認識されるのです。

我々が親などに授けて頂いた名前は、大切なものですが呼称に過ぎず

それだけでは、特に仕事をしていくうえでは、その人が何している人なのかさっぱり

わかりません。

我々の真実は方便であり、その行動行為が私達なのです。

また、その方便は仏様から生まれた時に授かっています。

それを全うすることが、我々の産みの親である仏様の願いであり、幸福なのです。

では、その方便は何なのか?

それは人によってそれぞれです。

もうすでに見つかっている人はその道を進み、わからないのであれば、今すべきこと、できる事が、今与えられた道なのです。

それを全うすることによって、虚空の世界に浮かぶ花の様に、世間に認識されるのです。

世は無常であります。

地球は廻り、太陽は廻り、自然は移ろいで生き、それは我々も一緒で常に呼吸をし、心臓が動きと

何一つとどまっているものは無いのです。

考える事も一つの手です、しかしこだわり過ぎると、真実まで忘れてしまうことがあり

方便がサビつき、自他共に不具合が生じてしまうのです。

美しい花を咲かせたいのであれば、すべき事、できる事を、したい事を。

方便究竟とし、廻りに認識してもらいましょう。

花は観手に咲く。

ぽんわりと咲いた大城冠の花を観てそんなこと思いました。

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