苦しんでいるから正しい?
湯を入れた瞬間、もこもこと泡が出て、お店顔負けのカプチーノが出来ます。
もうインスタントとお店の差がなくなりつつありますね。
さて、この世は苦しみの世界でありますが、何も「苦しむ事」が正しいわけではないのです。
「俺はこんなにも苦しんでる」だから正しいのだということにはならないのです。
そもそも、苦しんでいるということは、何かに執着をしていることなので、
やはり苦を取り除くのは苦を乗り越える、執着から離れるということが、目指すべき
場所なのです。
執着を離れるという事は、苦しみに耐えることよりもはるかに難しいのも事実です。
だって、自分とかお金とか大切な物ですし、老病死とか恐れて当然じゃないですか?
ですが、苦を根本から解決したいのであれば、そこを目指す事です。
では、どうしたら良いかと言うと、それらを考える有余を与えないくらい何かに集中したり
取り込んで振りきっていく事が、解決方法となるのです。
つまり方便を究竟とすることです。
流れ続ける水は澄んで美しいように、やはり継続しなければなりません。
従って、その行動は自分が好きな事であることが、継続させていくためには大切なのですが
いくら自分の好きなことでも人にある程度認めてもらえたり、必要とされなければ
あまり続けられないのも事実であります。
自分の存在は他人に触れることにより、よく自覚出来ますしね。
例えば「仕事めちゃおもしろいなぁ」と自分が思っていて、自分ではそれが普通でも
友達と会って、「仕事ってめんどくせー、やめてー」と友達が言っていたら
「仕事楽しいって言ってるの普通じゃないんだ」と自分の持っている個性に気づく事が出来ます。
人が辛いことを自分はスイスイと楽しく出来るなんてこれってすごいことじゃないですか?
仕事が楽しいなんて、人生の最良の幸せでしょう。
まぁこのように自分の事を知りたいなら、他人と触れなければ中々つかめないのです。
従って、いくら好きなことしていていいよと言われても、ある程度、喜んでくれる人
認めてくれる人がいないと、継続出来ないでしょ。
いくら好きなことをすると言っても「他人の喜ぶこと」から入ることが大切になるのです。
従って、人のためになる事、そして尚且つ自分も楽しめる事が、ベストポジションになるのです。
この世は苦しみに満ちた世界ですが、方便を究竟とし、苦を乗り越えた先に、善悪、生老病死を超えた
穏やかな浄土が広がっているのです。