住職の日記

苦しみの先に…

苦しみの先に…

紅梅が一輪咲き出しました。

寒い冬を乗り越え、美しい花を咲かす姿は何とも言えません。

さて、誰でも楽しみたい、楽しいことをしたいと思うものですが

それで、楽しいの定義なのですが、友達とあって遊ぶことも「楽しい」ですし

美味しい料理をいただくことも「楽しい」です。

しかし、お金の保証をしますからそれをずっと続けて下さいと言われたら、

ずっと楽しみ続けられるのでしょうか?

まぁそんな保証をしてくれる人なんているとは思えませんが、恐らく楽しみ続ける事は無理だと思いますし

だんだん苦痛になってくるのでは無いかなぁと思うのです。

何故ならこの世は無常だからです。

常に物事は変化していくので、どんなに楽しい事でも、好きなことでも続けていれば

嫌なことの1つや2つ生まれてくるでしょうし、豪勢な料理を毎日食べていても

「たまには、インスタントのラーメン食べたいなぁ」となることでしょう。

どんなに「好き」「楽」から入っても、または求めても行き着く先は苦が待っているのです。

苦を避けて楽を求めようとする人は、どの状況でも同じ行為を繰り返します。

従って、何事も続かなくなるのです。

ですから、苦の先に「喜び」があるんだと、その物事の裏に隠されている価値を感じ取らねばなりません。

こうして寒い冬を乗り越え咲いた、一輪の梅の花を見れば、本当の幸せ、喜びは

こういう事を言うのではないかと思うのです。

苦を避けたい、悲しみを避けたいのは当然といえば当然です。

愛する人を亡くしたり、傷ついたり、何かを失った際に笑顔で楽しもうなんて思うはずがありません。

だから、悲しい物は悲しい、辛いものは辛いのでそれを無理に楽しもうとすると

逆に変だと思うのです。

ただ忘れてはならないのは、楽しい事ばかりは続かない様に、辛いことばかりも続かないのです。

それは先ほど申しました無常だからです。

無常は我々をある意味苦しめるものでもありますが、反対に辛さを悲しみを晴らしてくれるものでもあるのです。

楽しむという定義をどのように捉えるのか?

それによって、逆に苦しくもなるし、今苦しみに喘いでいても、その先に真の喜びがあるんだと

耐え忍ぶ事が出来るのです。

そうすれば、次第に心から浄土が広がり、穏やかに生きていくことが出来るのです。

受け入れる時間は個人差があるかもしれませんが、仏様の光はどんな場所にいようと、

何時であろうと平等に照らされているのです。

どんなことがあっても、この世が光に遮られた闇の世界だと思い込んではならないのです。

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