芝生もだいぶ枯れてきました。
芝は冬場の間は枯れていきます。
もう本格的な冬の到来でしょうかね。
境内の木々もどんどん葉が落ちてまいります。
少し寂しくも感じますが、こうした四季の移ろいが
我々の日本人の感性を磨かせてきたとも思うのです。
人は、笑い、喜び、狂乱するだけでは、心は磨かれないのだと思うのです。
だから、修行が大事になるのでしょうね。
どうしても、目を背けたくなる無常という真理に逃げずに真摯に向き合い
その中(苦海)で見つけた方便こそ、我々の真実であり
本当の幸福なのでしょう。
こうして、葉が落ちて無くなっていく寂しい様子の中に、大切な仏の教えが「有る」のです。
「無い」の中に本当の姿が「有る」ということでしょう。
しかし、我々は有るの中に幸せがあると思い込んでいるのが実情です。
ただ、それでは満たされる事は永遠に無いでしょう。
そうした、渇愛は肥大していき、満たされることはありません。
「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり」
これは道元禅師の有名な言葉ですが、これだけだと意味は何の事だと思われるでしょうが
目の前に広がる悟りの相(すがた)をそのまんま読まれたのです。
つまり、悟りは今目の前に広がっているのです、そして広がっていないといけないのです。
文明が進み、何かがどんどん便利になり、我々の生活はある意味では豊かになりますが
それ(文明の発展)が=悟りではないのです。
ですから、すでに悟った状態から始めないと、何かが「悪いから」と何かを得ます。
しかし、得るということは同時に、何かを失うですからまた、何かを得ようとします。
しかし、また何かを得ても失うのでこのどうしようもない、イタチごっこの様な呪縛からは
逃れることができません。
同時に、心も穏やかに無くなりますので、迷いの世界にはまっていくのです。
だから、すでに我々は悟りの人である(幸せである)ということ、忘れてはならないのです。
それを教えでくれるのが、自然(仏)なんでしょう。
仏の教えは言葉や文字では本当の理解は得られず、身を持って体験することによって
味わえるのです。
静寂に包まれる晩秋は、いろんなことを感じさせてくれますね。
しかも、この御仏の講義は無料ですので、これほどありがたい事は無いですね。