肥料と水は大切ですが…
以前紹介したきゅうりの漬物のトマトの応用編。
ごまの風味が食欲をそそります。
注意点は早めに頂かないとビショビショになります。
さて、今トマトが旬でございますが、トマトの育て方で注意することは
肥と水をあまり与えすぎないことだと私のおばあさんから聞きました。
そうすることによって、甘さが増すそうです。
肥料や水って植物が育つためには必須ですが、与え過ぎも不作に繋がるのですね。
そう思うと、我々が今見を置く社会は食べ物は豊富で、情報なんて洪水を起こすほどですが
それが必ずしも人の成長に繋がっているとは言えませんよね?
ですが、その状況を否定しても何も生み出されませんし「あるがままに」という
この世の真理である仏法の理念に反します。
よって、自らどこかで律する事「断捨離」が必要となるのですね。
人から強制的にされる状況というのは、人はそういう状況であれば
せざるを得ないからするのですが、「自ら律する」と言うのは非常に難しいですね。
なんせ、今は24時間好きな情報を取得できたり、お腹も食べ物を選ばなければ満たされる時代に、
自らを律するというのは困難に思います。
従って、お寺の行事で言えば「写経会」や「巡礼の会」のサンガに価値が際立つのでしょう。
前提として、自分も含め人は楽な方に行くというのは持っていなければなりません。
でも「あるがままに」だから良いじゃないか?と思われるかもしれませんが
あるがままに受け入れる、のは感謝(懺悔)が出来る心があってのあるがままにです。
人の欲は青天井で、「もっともっと」と際限なく肥大していきます。
従って、この豊かな私生活にそうした場にわざわざ身を置くことによって、
そうした生活から一瞬でも離れる事になりますので、心の垢を落とすことが出来るのです。
そうして出来た心の隙間が、非常に大切になり、「少しこだわりすぎてた」などど
冷静に物事を見つめる事が出来るのです。
今の状況を完全に否定しても、ただ不便な昔に戻るだけなので、否定は全く持って意味がありません。
しかし、そうした状況にどっぷり使ってしまうと、もっともっとと欲が「パチン」と弾けるまで
増幅しだすのです。
トマトも、肥料や水のやり過ぎが良くないのであって、やらな過ぎも萎れていくのです。
よって、これから時代がどうなるか何て、予測は出来ませんが、こうした相反する価値観に偏らない
精神である「中道」が大切になるのです。
そして、自分にとっての中道は人それぞれで、皆でどこが中道とは決めれないのです。
つまり、幸せという実が成就する為には、仏法が最上級の肥料になるということですね。