避暑と避寒
今日も猛暑ですね。
この赤いサルスベリがそれを象徴するようです。
こうして暑いと我々はその暑さを避けるように、日陰や涼しい場所に避難します。
まぁそれが普通ですよね。
しかし、我々の心の中には、この真夏の日差しよりも熱い、燃え盛る炎の様な煩悩があります。
熱い日差しは避けるのに、我々はこの欲望の炎は避けずに、むしろもっともっとと
その炎で自らを燃やさんばかりに、火を足しているのです。
もちろん、知らずにですが。
当然ですが、そんな炎を永遠に燃やされたら、穏やかに過ごせるはずはありませんね。
では、その煩悩を無くそうと努力することは、人である以上無理であります。
そこで、欲望を少し減らしてあげることで、炎は少し収まるのです。
仏教には「足るを知る」という言葉があり、今すでに足りているという事を知ることが大切になるのです。
そうした智慧がなければ、煩悩の炎は際限なく燃え上がり自身を焦がすに至るのです。
つまり、仏法が心の避暑地になるのですね。
…ただこれが冬になれば我々の行動は真逆になるのです。
太陽の日差しを求めたり、温かいもの、飲み物が必要になります。
夏と行動は真逆になりますね。
先程から申してます、煩悩は悪いものか?といえばそうではなく
使い方によって良くも悪くもなるということなのです。
そして、我々が生きていく為にはとても大切なエネルギーになるのです。
では、その煩悩と如何に付き合っていくかでありますが
我々の行動動機には「○○したい」という物が因となるのです。
それが我々の持っている煩悩に結合し我々は行動出来るのです。
しかし、その因が利己的なものであれば、それが煩悩に結合し、暴発するのです。
ただ、その因が「皆を助けたい」と利他的、皆を慈しむ為の物であれば、それが煩悩と結合した際に
燃え盛る炎の様な菩提心が湧き上がるのです。
そうしたら、自分自身が太陽の代わりになり、太陽が出ていなくても、周りの命を育むことが出来るのです。
その温かい光を放つ元に皆が寄り添うのでしょう。
つまり、仏法は冷却ファンにもなり、暖房ヒーターにもなるのです。
仏法があれば、避暑地や避寒地に行かなくても穏やかにそして快適に暮らせるということですね。
反対に仏法がなければ、どこ行っても穏やかに暮らすことが出来ないともいえますね。