空っぽにしておこう
だんだん穂がなってきました。
穂(果)がなる為には、まず種(因)が必要です。
そして、水や、太陽、肥料、人の手間…というように「米」は「八十八」と呼ぶように
多くの手間や施し(縁)がかかっているのです。
そうして、ようやく大きな穂が付くのですね。
「謙虚になれ、謙虚になれ」と申しますが、謙虚というと、何でもなんでもへりくだって「自分には…」
と遠慮をすることではありません。
それは「卑下慢」と言ってちゃんとした慢心に当たるのです。
従って、真の謙虚とは「どんなことも受け入れる」という姿勢になるのですね。
稲穂は穂がたくさん付いている稲ほど垂れ下がっているのです。
これが真の謙虚でしょう。
ということは、供養をたくさん受け入れられる器が必要になるということですね。
その為には、まずこの世が「空 くう」であると知る事が大切になるのでしょう。
何にも無いのです、自分も、得るものもない「無所得の世界」であるのです。
じゃあ、何故自分という存在が成り立っているのか?というと、それは先ほど申しました縁なのです。
様々な存在から供養を受けて自身が成り立っているのです。
つまり、様々な存在の供養を受けて生かされているという、その事実を受け入れられるか?が
立派な穂がたくさん付く稲になる為には必要なのです。
その自分の起こり(因)を自覚し周りの施し(縁)に感謝し、行動に移せたならば
後で果がついてくるのです。
我々は果だけをいきなり得ようとしますが、果は因と縁の和合で成り立っているのです。
過程を疎かにして、果だけを収穫しようとしても、出来るはずがありませんね。
果を収穫したいなら、周りのありったけの施しを受け入れていきましょう。
その為には、空であると自分を空っぽにしておきましょう。
受け入れていけば行くほど、キャパは広がっていき、大器となるのです。
…「好きな事」をする事が大切と言いますが、好きな事とは「楽な事」とは違いますよね。
この無常の世では快楽はいずれ不快にになり、不快は楽になります。
すべき事でもしたい事でも、苦難はついてくるので
いずれにしても、結局それを正面から受け入れられる器が必要となるのです。
ですから、できるだけ空っぽにしておきましょうね。
受け入れていけば行くほど選択肢(道)がつまり穂がたくさんなるはずです。