無い物をあるように見るのは…
山茶花の蕾が膨らんできました。
もうすぐ冬ですね。
早いですねぇ。
さて、苦しみの正体は言わずとも、妄執です。
ではなぜ妄執が生まれるのかというと、「無いものをある」と思い込む事から発生します。
そもそもこの空の世界において自分や他人というあらゆるものの存在は本来無いのです。
しかし、その無い物をまるであるように、思い込むから執着が生まれ苦しみも生まれるのです。
じゃあ自分や人を大切にしなくてもいいんだね?と思われるかもしれませんが
そうではありません。
大切にするのは当たり前ですが、それがいつまでもあるもんだと思っていてはダメだという事なのです。
何故ならこの世は無常であるからです。
人やお金や物は無常の風を浴びれば、必ず風化していきます。
人は老病死に向かうし、お金だって国が破たんしたら、その瞬間からお金はメモ用紙かちり紙のくらいの価値になります。
物だって壊れたり、焼けたり、腐ったり、ブームが去れば一気に価値が下がることだってあります。
そんな不安定な物に心の拠り所にしている事は、根元が腐っている柱にもたれかかっているようなものです。
そんなはずないと、知らんぷりんすれば、その時はそれでいいかもしれませんが、この世の無常です。
避けては通れないものであるのです。
古来より存在している真理を無い物と思い込んで生きている事に問題があるのです。
では、何を頼りにしていけばいいのか、それは先程申しました真理です。
この世に存在する真理を拠り所とすることによって、穏やかな生活が手に入れられるのです。
我々はこの世で仏になる為に生まれて来ました。
その仏とは、真理を体現された方であります。
真理を体現するためには、自分も他人もないそのような境地にたどり着く事が大切になります。
その為には、謙虚でいる事であります。
謙虚とは「いやいやいや僕には出来ません」「私には向いてませんので」というものではありません。
私の先輩の言葉に「謙虚は最大の傲慢」というものがあります。
謙虚さも過ぎれば傲慢であることは言うまでもありません。
自分の愚かさを知っているなら、努力しないではいられません。
昨日の話でもありますが、自分の至らぬ点を知っているのか知らないでいるのか
これは大きな差であります。
自分はまだまだ足らないぞという自覚があるからこそ、あらゆるものを学ぶ姿勢が生まれるのです。
その逆に、「自分はもう十分だ」なんなら「今のままをキープ」なんて思い出したら
この無常の世においては激流の川に丸腰で飛び込むようなものです。
そしてさらに、自分の愚かさに全く気付いてない場合、その姿は滑稽以外の何物でもありません。
出来ないのに出来るふりをしたり、弱いのに強く見せたり、またはうまくいかないのを周りのせいにしだしたり、
もう止まりません。
妄執による霧に包まれると、物事が顛倒して見えてしまうので、ありもしない物を頼りとするのは良くありませんね。
真理は妙に上がったり急に下がったりせず、安定していて拠り所としては最適であるという事です。
法(真理)以外の物を拠り所とすれば、上がったり下がったりしますから、その都度心も乱れるのは言うまでもありませんね。