住職の日記

普くに通ずる事を諦めると…

普くに通ずる事を諦めると…

ロウバイ×松。

正月らしい。

さて、こうしてネットが浸透していき、買い物がすぐ出来て、そしてそれもすぐに配達してくれる時代です。

リアルの店舗は本当に厳しい時代で、一部ではアマゾンのショールームなんて言われ方もしているそうです。

しかし、だからといってリアルの店舗がやっていけないかと言うとそうではなく

そのネットの浸透を追い風にし、自分好みのお店を開く若者も多くなっているのも事実なのです。

ではネットとリアルの決定的な違いは、場の雰囲気と方便であります。

それが、決定的な違いとなるのです。

ネットは商品を並べて、直接消費者に届けるので、大変ありがたいことですが

運ばれてくるだけで、様々なノウハウを教えてくれたり、一緒に勉強したり、悩んだり

ご飯食べたり、旅行したり、イベントしたりはしません。

従って、これからの時代「物」だけでなく「方便」こそが価値になっていくのです。

話は変わりますが、よく「大日如来様ってどんな仏様なのですか?」と聞かれる事が有るのですが

この大日如来様は真理そのもので、宇宙世界そのものであります。

つまり、目に映る物そうでないもの、すべての存在が大日如来であり、我々は御仏の一部なのです。

これは例えるならば、ネット回線と思ってください。

実際にはそれよりも範囲は圧倒的に広いですが、ネットの電波が届けば

ネットができ離れた場所にいる友人とメールやテレビ電話ができたり、

ど田舎でも様々な買い物が出来るのです。

ですが、どんなにネットが優れていても、実際にその人と目の前にしている時の様な

距離感は得られません。

電子書籍がいくら発展しても、実際の本から得られる温かみや所有感は得られません。

どんなにネットを利用して合理的に仕事をしても、様々な会合に顔を出さないと

スキルやアイデアと言うのは生まれにくいでしょう。

会合に出るだけでも、行くだけで様々な物を見たり触れたり

出来るので、それだけでも大きなことでもあります。

従って、ネットが浸透していくからと言って、店舗や人の繋がりは無くなる事は無いのです。

逆にそのネットがあるからこそ、「方便」を更に磨く事が出来るのです。

古書をかっこいいオブジェにして雰囲気があるブックカフェが流行ったり

店長の好きな小物を沢山集めたお店が流行ったり、実際に流行るお店は現在もたくさん有るのです。

共通しているのは、物だけでなく好きな事を混ぜたり、いろんな雰囲気作りをしてあり

方便を掛けあわせているという事であります。

逆に衰退しているのは「物」だけに固執しているところです。

地域の状況にもよりますが、もう「物売り」はネットに任せて「方便」に力を注ぐ方がいいのではないでしょうか。

お寺の本尊様は、お地蔵様や観音様や阿弥陀様やお不動様と言った大日如来様でない尊格が多いです。

お地蔵様や観音様は悩める我々と一緒に歩んでくださる慈悲深いお方であり

お不動様は、仏道に帰依しない我々を、畏怖の念をもって仏道に導こうとされる方で

阿弥陀様は、どんな人も西方浄土に導く、慈悲深い仏様なのです。

それぞれ、大日如来様の様に、「宇宙真理」という抽象的なものではなく、それぞれ

分かりやすく方便を体現してくださる、ありがたいお方なのです。

そして、お地蔵さんにしても観音さんにしても、すべて大日如来様の化身であり

悩める我々もまた大日如来様なのです。

「一門即普門」という言葉が真言宗にはありますが、人が「一門」つまりお地蔵さんや観音さんなどの特定の

信仰した時点でそれは「普門」つまり大日如来様を信仰していると一緒だということなのです。

もちろん普くに通ずる「普門」を目指す事は大切です。

しかし、現実には普くに通ずる物はネットに変わりつつ有るのです。

もしそれを目指したならば、それはある意味真理に反した行動でもあるのです。

従って圧倒的な真理に逆らうのでは無く、その状況を謙虚に受け入れて

自身に与えられた、すべき事、好きな事、今できることをコツコツと積み重ねて行くことが大切になるのです。

ある意味「諦め」と捉えれますが、諦めは悪い言葉ではありません。

すべての状況を包み隠さず受け止めると、暗闇から一筋の道が現れるのです。

その道筋を懸命に辿ることが、我々に命を与えてくださった大日尊の願いであり

我々の特性であります。

その道を心穏やかに進む姿は、すでに仏なのです。

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