カンザキアヤメの花が咲いていました。
カンザキアヤメは茎が短く花が、葉に埋もれる様に咲くのです。
この、可憐な花ですが健気な姿が、いいですよね。
…何故人は、頑張る姿に惹かれるのでしょうか?
普通に花だけ咲いていても綺麗なのですが、どうして「葉に埋もれて咲いている」
と尚惹かれるのでしょう?
…たまに、不思議な格好をした仏像を観ることがあります。
蛇を体に巻いたり、顔が蛇だったり、屍を食い散らす狐に跨っていたり…
などなど、信仰の対象になる、いでだちなのか?と思うのですが。
しかし、これはれっきとした大日如来の変化したお姿であるのです。
蛇は煩悩の象徴でもあり、御仏が、そうした蛇をまとい、また蛇そのままの姿を
することによって、煩悩に塗れる我々に寄り添っているのです。
あまりにも綺羅びやかな仏や、宝石などの装飾を施した菩薩ですと
その神々しさに人々は仏道に親しみが持てなくなるのです。
つまりあえて仏が煩悩という泥に塗れ、煩悩に悩む我々の前に煩悩の姿そのままで現れて、
我々に安心を与え寄り添ってくださるのです。
…親鸞聖人は自身を「愚禿」といい、天台宗開祖の最澄様は「愚中の極愚、狂中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」
とここまで自己否定するかというほど、自身を見つめ、浄土宗開祖の法然は周りから尊敬を集めていて
優秀だったにも関わらず「愚痴の法然坊」と自分を名乗っています。
皆々、周りから尊敬される立場でありながら、自身の心と向き合い、仏道というものに取り組んでいると
そうした自身の内面に相当に苦しんでいたのでしょう。
そして、だからこそ、人々を救おうと精進されたのでしょう。
自身の頭の良さや肩書に酔いしれて何もせずいたら、それは愚者の振る舞いでしょう。
知識や肩書がなくても、人のために役たたせようと努力をしている姿は智者の振る舞いなのです。
知識や力は人を救うために有るのです。
他から見たら優れているのにもかかわらず、それでも内省し自身の心の影の
部分と向き合い、泥に塗れることを厭わず、世の人々の救済をする人こそ
智者なのです。
その為には、まず自分も悪の部分があると、自覚することが大切なのです。
御仏の前で、自分のすべてを告白し、自身を知ることから始まるのです。
まぁそんなことしたら、生きるのが嫌になるくらいになってしまいますが、
自身は愚者でもあると自覚することがある意味スタートなのです。
そうすれば、「こんなことなんで自分が…」と思うのではなく「させていただく」という
いろんな選択肢は増えると思うのです。
「自分は何も出来ない」と言うのは自我によって妨げられているのです。
ある意味自分がいなければ、自分はなんでもできるのです。
泥に塗れることができるのは、悟りの人だけでしょう。
悟りの人だからこそ、泥に塗れるのです。
反対に自分は優れていると思っている人こと、泥を嫌がるのです。