憎いのは…
ハナミズキとなんじゃもんじゃとのコントラスト。
どちらも初夏を彩る花です。
もう季節は夏ですが、夕方になると一気に気温が下がります。
どうか、体調を崩さない様にしてください。
さて、「あいつが憎い」「世が憎い」と何かを憎む事がありますが、それはそれらから何かを得ようとしているからです。
見返りを求めようと行動すると、自分の欲求が満たされなくなると、イライラしだし、遂には愛するの対象であった相手が憎くなるのです。
何かを得よう、得してやろうと見返りを求めながら生きていると、残念ながらつらくなります。
ではどうするかというとずばり「考えない」ではないでしょうか?
「これやったらどうなるの?」「これやったら得られるかな?」こう考えているうちは、本当の幸福は得られませんし
良いとか悪いとか関係なく、恐らくその行動は続かないでしょう。
行動することが目的でなければなりません。
私たちはこの世に幸せになるために生まれてきました。
それはどれだけ楽しい時間を作れるか?です。
行動することを楽しめたら、言う事ありません。
楽しい事は永遠に続けても、つらくありませんからね、本当に素晴らしいです。
「何かを憎んでいる」っていう事は自分がその対象から対価を求めていた証でもあります。
「あてにしてたのに」と思うのも人間の心情であります。
しかし、我々が心の支えにしていいのは、普段努力していた自分だけです。
人の心は人の物であります。
人がどうしようと、その人の勝手です。
という事で、常に損得勘定、好き嫌い、対価を求めながら生きていけば、とどのつまりが必ずやってくるのです。
よく「今日も何にもいい事なかった」と言っている人がいますが、本当にそうなんでしょうか?
三食食事がとれて、風呂に入れて、暖かい布団で寝れてと、どっからどう見ても幸せですよね?
お気付きだと思いますが、幸せは与えられる物でなく、自ら感じる物です。
講演を聞いていても、「何にもいい話なかったなぁ」という人もいますが、これも自分で気づく物です。
手取り足取り「あのね…ここがね…」といちいち教えてくれるもんだと思っていると、本当に時間だけ過ぎていきます。
感じ取る気持ちがなければ、どんなに裕福は生活をしていても、素晴らしいお話を聞いていても享受できないのです。
そして、その差は「普段の行動」に起因していると思います。
享受できないのは普段の行動が「見返りを求めた行動」になっているのだと思います。
今の行動のその先に執着しているので、自我が離れません。
そうすると、心の容量は空きません。
やがて心はどんどん雲に覆われてしまい、せっかくの光も届かなくなるのです。
その逆に、普段行動を楽しみ、行動をするために行動する人は、自我が離れるので心に容量が空いてます。
そうすれば、今ある幸せも、いい話も、心に届くのです。
くどいようですが、我々は幸せになる為に生まれてきました。
ですから、目的をもって行動していると、条件は満たしていても幸福を享受できないのです。
したがって幸福とは「今を生きる」という事です。