住職の日記

本質は変わらなくても

本質は変わらなくても

これなんだかわかりますか?

ご存知の方もおられるかもしれませんが、バトル鉛筆と言われる私が小学生の時に流行った鉛筆です。

もうちょっと昔でいうと、「キン消」みたいなものです。

バトル鉛筆とは鉛筆の上部に漫画のキャラクターが描かれており、鉛筆の六面それぞれにそのキャラクターの攻撃が書かれていて、コロコロと鉛筆を転がし対戦するという、鉛筆です。

先日机の引き出しから古びたバトえんが出てきました。

昔学校の休み時間これでよく遊んだものです。

筆箱とは別に、このバトえん専用の筆箱を持ってい子もいました。

本当に流行ったし、普通の鉛筆よりもお値段は高いです。

当然普通の鉛筆の様に書けます、本質は鉛筆となんら変わらないです。

普通の鉛筆とバトル鉛筆は何が違うのか?

柄だけです。

それだけです。

柄を、漫画のキャラクターにし、六角柱の鉛筆のコロコロ転がる特性を活かし、見事小学生の心を掴みました。

「これがあると勉強の妨げになる」とか色々意見もあったようですが(それはこの鉛筆のせいではないと思うが…)

何はともあれ人の心を掴んだのは間違いないのです。

普通の鉛筆ではこうはならなかったでしょう。

表紙というか、鉛筆の柄が違うだけで値段がこうも変わるのかと不思議になります。

我々のいる世界は実体はないのです。

なので、どのように認識してもらうかが非常に大切になるのです。

このバトル鉛筆に関しても、子供たちは鉛筆に価値を感じて購入してたのでしょうか?

そうではないですよね?

「漫画やゲームのキャラクターの絵が描かれた柄の鉛筆」に価値を感じたのです。

「そんな事か…」と思われるかもしれませんが、そんな事なんです。

「でもバトル鉛筆はもう玩具じゃないのか?」「鉛筆である意味はあるのか?」そんな声が聞こえてきそうですが

おそらく大ありだと思います。

まず、学校に玩具を堂々と持っていくと私の経験上先生に取り上げられます。

しかし、名目は「鉛筆」と出来るバトル鉛筆は筆箱に忍び込ませやすく、先生も学校の勉強で必要な「鉛筆」を所持していることは注意できません。

したがって大ぴらに学校に持ち込めます。

そしてこのバトル鉛筆は、一人では遊べません。

対戦相手が必要です。

当然学校には友達がたくさんいます。

バトル鉛筆から得られる「休み時間みんなで遊べる」という体験が「キャラクターの柄の鉛筆」を「キャラクターの柄の鉛筆」以上の価値にしているのです。

この世は、「価値観」と「価値観」の交換です。

伝わらないという事は、存在しないということなのです。

価値観がわからなかったら、残酷かもしれませんが、人は必要としないのです。

あなたがもし、そばを食べるなら、照明や音楽や店装に気を使っていて心地がいい雰囲気があるお店と

何にも店装や音楽も照明に何も気配りがない、殺風景なお店とでは、どちらでそばを食べたいですか?

もちろん「そば」という本質はどちらも変わりません。

しかし、そばというのは、そば自体は美味しい物ではありません。

よって、汁の味覚、店内の雰囲気などの視覚、出汁や蕎麦の香りなどの嗅覚、店内の音楽などの聴覚、蕎麦の食感などで、お客さんを楽しませなければ蕎麦でお客さんを満足させることは出来ません。

外食でわざわざ美味しくないものを食べる人はいませんよね?

本質は一緒なら、後はどのように表現するか?ですよね。

もちろん、かっこいいとか、きれいだけもいけません、伝わりやすく、分かりやすくすることが大切です。

いちばん上に戻る