慈悲を根に
近所の方から大きい柚子を頂きました。
大きいですね。
今日は本当に暖かい日でした。
正に「小春日和」です。
「へ?何言ってんだ今冬だぞ」と思いになられたと思いますが
私もさっき本で見たのですが、小春日和は晩秋から初冬の今日の様な春の様に
暖かい日を言うそうです。
世間では三連休という事で、皆さん出掛けるには最適の日ですね。
さて、欲望という物は一般的には悪い物とされていますが
仏教では欲は完全には否定はしません。
勿論完全には肯定はしませんが、要はその使い方にあります。
もし、その「○○したい」という動機が、自己中心的で、自己の利益の為だけだったら
その身は滅びて行く事は間違いありません。
しかし、その動機が「多くの人を救いたい」「困っている人の役に立ちたい」という根が「慈しみの心」
であればそれは、「いわば正しい欲望の使い方」となるのでしょう。
因が慈悲でなければ、やがてとどのつまりがやってくるのです。
ではなぜ因が自己の為だけだったらとどのつまりがやってくるのかいうと
簡単に言うと、どこか「せこい」のです。
または「狭い」のです。
これは皆さんも経験あると思いますが。
壮大な目標や夢を掲げる割には、何か辿り着こうとしている所が「そこか!」という感じです。
因が自己の為の行動はやっぱり周りの人が言わないだけで感じ取るのです。
しかし、因が慈悲の心であれば、どこか広大な世界がその人から感じて
人々を魅了するのです。
じゃあ、何にも喰わずにやっていけるのかよ?と思われるかもしれませんが
人間である以上、食べ物もお金も必要です。
じゃあ、それでは因が自己の為である者と同じじゃないかと思われるかもしれませんが
それは全然違います。
その決定的な違いは、「継続」です。
自己の為だけの行動という物は長続きしません。
見返りが得られないと感づいたらさっさとやめてしまいます。
何故なら、その行動は自分の為だけだからです。
相手がどんな反応しようと、自分が重要ですから、その大切な自分が
満たされないのだから、止めるに決まってます。
因が他の為にという物なら、少々の困難も乗り越えて行けますから、その道は続いて行きます。
日本には老舗と呼ばれる企業やお店が多いです。
そのどれも共通しているのが、「自社の利益の為」だけでなく、「お客さんの笑顔」「地域の為」という物が
やはり念頭にあるのです。
でなければ、少々の困難に当たった際に「割に合わねぇ」とさっさとやめているでしょう。
勿論、どちらの会社もお金を儲けることは同じです。
ですが、皆さんだったら、「自分第一の会社」と「お客さんの笑顔が第一」という会社やお店だったら
どっちに携わりたいですか?
言うまでもありませんよね。
従って、根が慈悲心でない場合その行動は善いとか悪いとかでは無く続かないのです。
この世は全ての存在が互いに尽くしあって生きているのです。
その真理に堂々と背向いて、自分では気づかれてないと思っているでしょうが
その違和感は必ず感じ取られます。
従って、何か行動する際にきれいごとではなく、「見返りを求めない慈の心」が必要なのです。
でなければ、無常の風にかき消されるだけです。