山茶花の花が散っていきます。
無常の世の相(すがた)がここにあります。
無常という真理は様々な物を奪っていきます。
我々も命も、物の価値も、何もかもです。
虚無感に苛まれてしまいそうですが、無常の風にでも奪い去れないものが
あります。
それは、「方便」であります。
無常の風によって、物やお金、時には健康な体を奪われることがあっても
この方便だけは決して奪われることは無いのです。
例えば、仏道修行でも、体の自由が効かなくなったりして体による施しができなくなった
としても、言葉(口)でも施しができるのです。
そして、遂には体も言葉も精根尽き果ててしまっても、心を穏やかする
修行だってあるのです。
この方便は無常の風も届かない、何人も侵すことができない絶対聖域なのです。
…いくらネット通販で物が安く変えたとしても、その使い方または
有効な使い方までは教えてくれません。
つまり、いくら物が安く変えても、その恩恵をまるまる受けれるかといえばそうでは
無いのです。
物が売れない時代でも、「品売」は出来なくなったとしても、そうした「商い」は
できるのです。
無常の変化をモロに受ける資本主義の世界とは違い、仏の世界はそうした
影響を受けないこの世での唯一の領域になるのです。
やれるかどうかは別として「常に」今自分が「やるべきことは」ありますね。
そして、その中で「出来ること」をそして、その中で「したいこと」を
していきましょう。
不滅の城は「有る」の中にではなく「無い」の中にあるのですね。