一体どれくらい必要なのか?
シャクナゲが満開になりました。
ふかふかな豪華な花が美しいです。
さて、この世は「空」でありすべての存在に実体が無いのです。
つまり、人という人、物という物、は我々人間が認識によって作り上げられた虚像に過ぎないのです。
従って、それらに執着してしまうと、それと同時に苦しみが生まれるのです。
するとどうでしょう?我々は「もっといいものを!」「もっともっと」とさらに欲望が膨らんでいくのです。
物や情報でも何でも得れば「安心が得られる」という思い込みがそうさせるのです。
その必要以上に得たばかりに物や情報が不安や不具合を生じてしまうのに
その苦の原因がわかってないと、こうした苦しみは永遠に無くならないばかりか、弾けるまで膨らんでいくのです。
よって、我々はそれらの執着を離れなければならないのです。
では、我への執着を如何に離れるというのかと言うと、執着は煩悩によって生まれているので
「その煩悩を無くす」という事がパっと思い浮かぶと思いますが、まず人間にはそれは無理に
思いますので、その煩悩と正しく向かい合い、そのエネルギーを追い風とし
苦厄を度す事が大切になるのです。
では、何をその煩悩と結わすのかというと、慈悲心です。
「多くの人を救いたい」「多くの人を楽しませたい」という心です。
まぁこれも欲望のうちに入るのでしょうが、自分のためではなく
皆の喜びが自分の喜びであれば、それは煩悩と正しく向かい合っている事になるのです。
その動機と煩悩が結合した瞬間、燃え盛るような炎のような生命エネルギーが湧き上がり
自我にとらわれる事がなくなるのです。
そうしている姿は、無我の状態ですので虚空と冥合して、一体となっていくのです。
そして、その姿を見て人は「仏」と言うのです。
こうして虚空の世界で美しい花が創造されるのは、何にもとらわれる事なく
花が自身に備わった命を燃やし尽くしているからです。
その結果として花が虚空の世界に浮かぶのです。
ただ、物やお金を軽視していいと言うわけではありません。
とても大切なモノですが、あくまでも「使う」もので囚われて「使われて」は行けません。
お金の為に生きているのなら、二十万でも一億でもどのみち足りなくなってくるのです。
欲望は青空天井で、果てがありません。
それぐらい恐ろしいものであるのです。
しかし、先ほど申しました、煩悩と慈悲心が結合させて菩提心が備わっていれば
自分の志す道の為にお金がこれだけいると、お金の為ではなく求道の為にお金を使う立場でいられ
そうした、破滅の道を辿ることはありません。
「宝は道心」と申しますように、最高の幸福は何かに情熱を注げられる道と出会う事でしょう。
そして、それはもしかして「自分は好きでもこんなもの役に立つはず無いよなぁ」と
勝手に決めつけているだけで、今も埋もれているかもしれません。
好きなモノの為には苦も乗り越えられるし、費やす時間も惜しくありませんよね?
物やお金はとても大切なモノですが、それに囚われてしまうと、虚空の世界から分離していく事になります。
ですから、求道心を起し、その道を穏やかに渡るなら、どのくらい物やお金や情報が必要なのか?
今の時代、あらためて吟味する必要があるかもしれません。