住職の日記

ベラドンナ・リリー 真の淑女

ベラドンナ・リリー 真の淑女

ホンアマリリス(アマリリス・ベラドンナ)がひっそりと咲いてました。

ホンアマリリスとはヒガンバナの一種であります。

ベラントナとはイタリア語で「淑女」という意味を持つように、百合に似たお淑やかな美しい花です。

アマリリスと言うと沢山の種類の花があると思われているのですが、確かにこのアマリリス属に沢山属してたのですが

この「ベラドンナ」を除いて多くの花が他の属に移ってしまい、アマリリスと呼べるのはこの

ベラドンナと1998年に新種として発表されたパラディシュコラ種しかないそうです。

だから、本来のアマリリスという意味で「ホンアマリリス」というそうです。

さて、こうして移動や、時間を重ねていくと、様々な物が付随して行き

本来の姿という物がわかりにくくなってしまうことってありますよね?

そうなると、本来心を拠り所とするべきでないものに、寄りかかったり、執着しだして

不具合が生じ、自他共に不幸に巻き込んでしまうのです。

先ほど申しました「ベラドンナ」とは淑女という意味があるのですが、美しいとかお淑やかって

本来どんな姿なのか?

私は「上品な姿」をしていることを言うと思うのです。

上品とは一般的には、高級であるとか、格好が良いと使われていますが

「上品・下品」という言葉は実は仏教から来ていて、「品」とはサンスクリット語で段落や種類を表していて

極楽浄土に往生する際に、その人の機根を「上品・中品・下品」と分類したものであるのです。

機根とは仏の教えを実践する能力の事で、つまりよく修行した人は最高の往生が出来るという事です。

そこから、いつぞや格好いい、容姿が良い、立ち居振る舞いがいい事を上品、その反対を下品と言うようになったのです。

どんなにいい物を身に着けていて、立ち居振る舞いが見事でも、人を見下したり、悪口を言ったりしていたら

「下品」以外の何者でもありません。

従って、上品や美しいお淑やかの姿とは、仏に帰依し、それを深く実践している姿であるのです。

「私はこんなけ修行してます!」と吹聴することは、品を下げるに思います。

仏に私淑することが大切なのです。

「私淑」とは秘かに善い物に親しむということです。

密教の密とは仏の「秘密」の教えであります。

その秘密の教えは、行動つまり方便の中にあるのです、しかしその行いを「どのように」するかが

大切なのです。

「すべき事」として、行っていてもそれが自分の「したい事」でなければ「自分はこんなにしました」と

自ら吹聴しだし、周りに認めてもらおうとしだします。

そして、どんなに「すべき事」でも「出来る事」でなければなりませんし、出来ることでも

自らその行為をしたくなければ継続は難しくなり、当然見返りも必要になります。

そして、見返りがあってもしたくなければ継続できません。

では「したい事」であれば良いのではないか?となりますが、誰からも認められず自分だけ楽しむことも

不可能に近いです。

従って、これらの事を合わせると、「他」の為に「自分」が「すべき事」を探し、その中から「出来る事」を探し

最後に「したい事」を組み合わせると、見返りを求めずとも、他のために出来る方便が浮かび上がってきますね。

それなら、いちいち、是非の評価をされなくても、上がったり下がったりすることなく

穏やかに修行続けていけますよね?

そうなれば、他の批判したり、愚痴をこぼさなくなりますから、「上品上生」ではないでしょうか?

まぁただ、この品は「上品・中品・下品」さらにそこから三段階ずつ別れて「九品」に分かれていて

阿弥陀如来様はどんな人でも漏らさず救ってくださると思いますが、なるべくなら上品で往生したいですよね?

美しく上品になりたいと外面だけをいくら取り繕っても、本当の品は外面だけでは磨かれず

中身(心)を磨かないと品は上がらないのです。

実際、このアマリリスはこんなにも美しいのですが、境内の隅でひっそりと咲いていました。

正にこの姿「上品上生」の淑女そのものです。

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