バイオ
駐車場にきのこが生えていました。
きのこは野菜ではなく、菌の類に入ります。
菌というと「うわっ汚いと」とされ、今は何でも「除菌」しますが、
この菌のおかげで、我々は清潔な生活が遅れるのです。
光合成を行う植物は我々人間を初め動物の消費者によって消費され
その消費者が蓄えた有機物を分解するのが、この菌なのです。
ですから、このサイクルのどれかがかけても、バランスが崩れうまくいかないのです。
例えば、殺菌力の強いボディソープで体を洗いすぎると、善い菌や過度に皮脂が洗い流され
荒れてしまったりします。
もっと言うと、我々の体内は菌だらけです。
我々が生きるためには食べなければいけません。
ですから、自分が生きるために食べると思われがちですが、そうではなく
仏教では我々の体の中には顕微鏡で見なければわからないほど小さい八万戸の部屋(細胞)が有り、
その中に、合計で九億の虫がいると考えるのです。
つまり、我々は、その虫たちの為に食事(命)を頂いて、栄養をそれぞれの部屋に住む虫に行き渡らすのです。
この細胞の物資代謝があるおかげで、我々は生きていられるのです。
こう考えると普段の食事でさえ「自分」の為でなく、自分の体に住む虫の為、つまり利他行なのです。
我々は人間は、そうした八万もの細胞が皮膚の中に収まった命の集合体なのです。
こう細かく考えると、我々は「生かされている」「借り物」とよくわかりますね。
従って、安易にそうした姿形に惑わされずに「善悪」つけず、本質を見極めたいですね。
その為には、視力を上げるしかありません。
この場合の視力は、「1.2」と言うものでは無く、心の眼の視力です。
これが曇ると、本来「1つの物が2つに見えたり」反対に「2つのものが1つのもの」に逆さまに見えるのです。
本来命は1つなのに、それが知識や経験によって理性をもち、違うものが2つあると見えて
その違いに苦しむ。
世の中には善いものと悪いものがあると安易に考え、簡単に除菌をして土壌を貧しくしてしまう。
心の眼が曇ると、本質まで目が届きません。
それは、気づいていないだけで、仏教で一番戒める行為、殺生をしているのです。
仏の世界(仏の体内)はすべての命が生かされ、尽くし合う世界です。
我々はその体内の一部の細胞の中の虫であり、更にその中にも9億ものの虫が存在しているのです。
従って、我々は「本来」仏であるという決着に至るのです。
それを、知識をつけ理性が伴ってくると、自我という物が肥大し、核分裂が意識の中で起きて
不具合(苦)が生じるのです。
ですから、仏法に帰依し心の洗浄をし心の視力を上げることが大切なのです。
そうして、御仏の様な眼差しをもち、命を活かし、そして自身も尽くすことによって
つまり仏になって初めてすべての犠牲になった命、施しが報われるのです。
体内の虫の為だからといって、単にバカ食いしてはいけないのです(耳が痛い…)。
そうした科学が発達してない時代に、こうした事がわかった仏教は素晴らしいですね。
恐らく、この仏教は学問ではないですが、すべての学問に精通している言うか、人として学ぶべきものですね。
それが実践学習なら言うまでもありませんね。
従って、我々も出来ることから、実践していきましょう。